悠々自適でPhilosphiaなスローライフを目指して

日々を,感じ考えるままに書き留めてみる。 世界はどうあがいてもクソだが面白い。

私の平成史 〜余は如何にして情報学徒となりし乎〜

平成の終わりに 〜ヒューマンスケールとしての元号

平成31年4月30日.明日から令和がはじまる.私は今大学院生であることから察される通り,平成の初めの方の生まれであるため,昭和から平成に移り変わる瞬間を見ていない.あの時は天皇陛下昭和天皇)の体調が逐一報道され,崩御なさると通夜モードの中平成を始めたと聞くが,今回は,今上天皇生前退位なさることで,新元号の発表がInstagramTwitterで中継されたり,号外が飛ぶようにはけたりと,何かとお祝いムードになっている.

西暦以外の暦を使う文化は,台湾(中華民国暦)や古くは中国でも使われていたというが,台湾は「建国から何年」という数え方をしていることもあり,天皇の退位に伴って「元号」が変わるという文化は日本に独特なものだろう*1.とかく明治以降の元号は,天皇の交代によって変わっていくため,元号はヒューマンスケールを持った暦である.「平成」「昭和」「大正」「明治」それぞれの時代が,人間的な長さで,人間的な性格を持って進行してきた.昭和の人,平成の人という区分けが良くも悪くもなされ,概ね30-40年程度のスパンで進行するため,「世代」の区分けとしては非常に手頃になるだろうと考えられる*2.一方,西暦でミレニアム世代という区分けがあったが,あれは2000年の節目が来たからで,そこから何年区切りに分けて行けば良いのかは,正直よくわからない.

非人間的な=客観的な軸が求められる公文書や免許証にこれらを併記するかの議論はさておき,人間を扱う研究をやっている身からすると,「元号」の独特な文化は,純粋に興味深い.

はじめに

さて,前置きが長くなったが,平成の区切りに際して,少し自分の過去をまとめておきたいと思う.私自身が,これから少なくとも数年は「情報学徒(人間学徒)」として生きていくにあたり,なぜここに辿り着いたかのセーブポイントになるだろう.

結論から言うと,私は高校時代までは「化学者」を志し,大学学部時代は「物理学者」を志していたが,今の専攻は「情報理工学」という分野にいる.それぞれ道を変えていくきっかけがあったので,後学のため,自分自身のためにも一度整理しておくことにする.

小学校時代 〜自由研究と実験工房,科学への憧れ〜

私は, 父母ともかなり教育熱心である家庭に生まれたため,ピアノや水泳など様々な習い事に通わされた.週の半分以上はそれで埋まっていたという,弊学にそこそこいそうなタイプの少年な訳である.

特に独特だと感じたのは,自由研究に関する親の熱の入れ方であろう.私自身がやった自由研究を振り返ると,

  • 1年 色変わりの科学:酸とアルカリを紫キャベツ液やBTB液で調査
  • 2年 火星大接近:2003年の火星大接近に関連して,父の望遠鏡を使った観測調査( https://www.astroarts.co.jp/special/2003mars/introduction-j.html
  • 3年 ゴミ処分場の見学とゴミ問題の調査:夏休みにたまたま処分場見学に行けたので,それのまとめとリサイクルやゴミ問題で今何が問題なのかの調査
  • 4年 結晶の研究:ミョウバンや塩の結晶作りと顕微鏡での観察
  • 5年 電磁石と電磁誘導:コイルの巻き数や鉄心を入れる実験.クリップモータや簡単なモータ,電子回路を自作.
  • 6年 DNAの研究:DNAの抽出実験をブロッコリー等で.DNAーRNAの話など理論メイン.

と,かなり豪華なラインナップをやらせてもらった*3.当時は,母(某大文学部卒)が熱心に文献を調べ,それを私が聞きつつ学びつつという感じであったが,何より今でも役立っているのが,小学生当時から「動機・目的->背景->予想・仮説->実験->考察->結論」といういわゆる科学論文のお作法を叩き込まれたことにある.実際,自分で仮説を立てて,なぜそうなるかの根拠を考えつつ検証していくプロセスがすごく楽しかったので,小学校の卒業文集には「化学者」と将来の夢を記している.

また,設立当初の未来館実験工房に月1くらいで参加し,導電性プラスチックでノーベル化学賞を受賞した白川博士の講座を受けたり,レゴのマインドストームでロボットを作ったり,何かと親に連れられて,足繁く通ったものである.

中高時代 〜化学部と研究の始まり,化学への興味〜

中高は,都内の某中高一貫校に通い,中1こそ帰宅部*4だったけれども,中2で友人に化学部に誘われて入り,以後高3の夏まで続けることになる.

最初は,「時計反応」と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E8%A8%88%E5%8F%8D%E5%BF%9C),何年か前にBZ反応の発見で水戸の方の高校生が話題になっていたものと似たものを扱って,分量によって反応時間がどのように変わるかの計測をひたすら行なっていた.文化祭の実験のために,最適な分量を探索していたのだが,このひたすらトライしてみる下積み期間のおかげか,「探究」の欲が掻き立てられることになる.

中3以降は,顧問と相談しつつ,「アセトアミノフェン」という,某風邪薬に多く含まれる成分*5について,中等教育のレベルでどう合成できるかについて研究を進めていた.

結果的に,「フェノール ->p-ニトロフェノール->p-アミノフェノール->アセトアミノフェン」という既存の合成経路は,中高レベルでもある程度なんとかなることと,水蒸気蒸留というわりかし独特な実験を取り入れることができるとして,教育現場でも入れたら面白いのでは,という話までは持って行けた.最後の年は,「染料から医薬品」として,アゾ染料からアセトアミノフェンを作るところにもトライしたが,こちらはアゾ染料のN-Nの結合を切るのに苦労して,なかなかうまくいかなかった.

同時に,化学グランプリに出場させていただいたりもして,代表候補に選ばれたり,とある年には大賞を取らせていただいたりという経験をする中で,「化学者」という道を強く意識するようになった.

のちに全てをひっくり返すことになるし,今周りの友人に言っても信じてもらえないのだろうが,この時は東大に入ったら「理学部化学科」の一択しかないと思っていたのである.

大学学部前期 〜SCとの出会い,物理に魅せられて〜

無事,現役で東大に入ることができ,東大CAST(https://ut-cast.net/)という団体に所属することになる.「科学の面白さを多くの人に伝えたい」というモチベーション,私自身高校時代に東大の五月祭を訪れた際に,活動内容を多少知っていたこともあり,加入をした.以後,かなりのプロジェクトを手がけたり,事務方であれこれやったりするわけである(SC関連の話は別口で書きます^^).

一方,東大の駒場・教養課程における化学の授業は,

  • 基礎現代化学:先生が好きなことを話す謎講義.
  • 構造化学:量子化学の入り部分.水素原子のスペクトルの話とか.
  • 物性化学:金属の錯体の話やその色の話.

の3つがあるのだが,正直申し上げると(もともと知っている知識が多かったというのもあるが),あまり魅力を感じるものではなかった.

比して,物理の授業は,主には

あたりがあるが,これが高校までのふわふわした議論が,綺麗に整理されていくのが非常に気持ちよかった.熱力学の福島先生*6,振動・波動論の加藤先生*7解析力学の加藤先生*8統計力学の堀田先生*9など,先生に恵まれたのが大きいかもしれない.

特に,高校時代,化学をやっていた人間からすると,統計力学の「ミクロのランダムな分子運動を統計学の力を借りて,マクロでは熱力学的な物理量がほぼ揺らぎなく定まる!」というカッコ良さが本当に好きになってしまい,物理側へと心を動かすことになる.

そして,理学部物理学科と工学部物理工学科を悩んだが,サークルから引っ張ってきた「ものづくり=工学(Engineering)」への憧れと,素粒子・宇宙よりは物質っぽい話をやりたいというモチベーションから,物工を選ぶことになる*10

大学学部後期 〜科学哲学の衝撃,人間への興味〜

東大の物理工学科は,「応用物理系」というカテゴリに属し,元を一にする計数工学科と授業を一緒に展開している.おかげで,数学系や情報系の授業にも多数触れることができるのだ.だが裏を返せば,浮気心の多い人にとっては,「こっちも面白そう〜!」と心が動きかねない.僕もその一人だった.

そもそも,化学を軸にした「科学(サイエンス)」で生きてきた人間が,ものづくりに憧れてきたのだから,モノを作っている感じの人たちの講義に憧れを抱かないわけがない.中でも面白かったのは,

  • 制御論:プラント制御やシステムの制御を数学的に扱う.Engineeringを数学的に考えていくプロセスとか,すでに退官なさった原先生のキャラがめちゃめちゃ面白かった.
  • 認識行動システム論:人間を「システム」として捉えるVR(稲見先生)と,ロボットのシステム論(渡辺先生)が同じ講義に詰め込まれているのが楽しい.どちらも俯瞰できるのは,計数のシステム工学ならではの視点.

である.これらの講義が「工学(Engneering)」への興味をさらに高めていくことになる.

一方で,私はその頃,「SCってなんのためにやるんだ?」という問いにぶつかっていた.CASTのSC自体はそれはそれで魅力的なのだが,そもそも「科学」の何を伝えていけば良いのかに悩み始めていた.そんな時に,石原先生*11の科学哲学の授業に出会った.科学哲学とは,まさに「科学とは何か?」を考えてきた巨人たちの思考をさらい,私たちが今直面している原発問題や地球温暖化などの問題を考える糸口をつかもう,という学問である.*12 私自身は,そこである種の科学神話をぶち壊された.今まで,科学を信奉し,「科学を信じていれば未来は明るい」とすら思っていたが,科学とは相当に人間的な営みであることを突きつけられた.誤謬をできるだけ取り除き,精緻で客観的な理論を組み立てるために,ピアレビューや学会といった制度が出てきているが,一方でその制度も多分に人間的であることから,絶対公平の中立はありえない,そんな議論は,私自身の「科学とは何か?」というモヤモヤした考えに,勢いよく突き刺さってきた.

さらに,私の物工の友人も述べていたが,「自然は美しい方程式からなる」のではなく,「美しい方程式は,人間が見たいように自然を見た結果生まれたものだ」というのが正しい理解だろうが,その理解に至ったのもこの時期である.物理の本を読み進めていくと,式が徐々に複雑になっていくが,それは「人間が今まで無視していた効果=見ないようにしてきた効果」が気になると,その効果を加えた議論をして,自然と複雑になっていく.「見たいように見る」というのは,物理の用語では「近似」という.物理学者は,この近似をいかにできるか,世界をいかに単純化しつつ有効な情報を得ていくかのセンスが問われる,という話をある先生から伺ったが,まさにそのような「近似」の世界なのである.

「自然は美しい.その美しさを知るのが科学の営み」と思っていたある種の憧れが私の中で音を立てて崩れ落ちた.私はどの学問を軸に生きていけば良いのか,SCの文脈から始まった問いは,私の学問観まで問い直させることになった.

その中で魅力的に映ってきたのが,システム工学の一部の研究室が扱っている「人間」である.応用物理的な観点を持ちつつ,「人間」を扱おうとする研究は,「今まで人間が積み上げてきた哲学を実験的に明らかにできる学問」としての魅力を持ったのである.学問自体が人間的な営みなら,人間自体を扱う学問は,それら学問の営み自体についても考えていけるのではないか,その「メタ学問」的な側面にも興味を持ったのかもしれない.

私自身,もともと哲学が好きだったり,本を読むのが好きだったり,考えるのが好きな人間でもあるので,この研究分野で自分自身がモヤモヤ考えてきたものが,少しずつ晴れてくるのではないか,という期待もあって,進学の第一候補に躍り出たのである.

結局,4年の6月,出願直前まで悩むことになるが,情報理工学系のシステム情報学専攻(計数システムの大学院ver)一本に絞り,結果今の研究室に所属しているわけである.

タイトルに,「余は如何にして情報学徒となりし乎」と書いたが,私自身は「余は如何にして人間学となりし乎」の方が適切な気がする.私自身の興味はあくまで,人間の知覚や認知,社会や集団の生成,コミュニケーション,人工物の「創造」など,人間的営みがどのようなプロセスで生まれてくるかを理解することにあると思うので*13

おわりに

今回は,本流としての「学問の探究」の道をどのように選んできたか,について書き連ねてみた.私自身,効率よく生きている方ではないので,なんだかんだ迷いに迷って今この立場にいるわけだが,少なくともしばらくは自分自身の興味が尽きていないことから,この分野でやっていこうかな,と思っている今日この頃である.

別の機会(おそらく五月祭後?)に,副流としてSC・教育関連の「実践の探究」の履歴を,科学哲学や博物館教育学なども交えて,元号またぎにはなるが,書き留めて見ようと思う.

*1:素人発言なので,他に採用している国があったらごめんなさい

*2:大正天皇が若くして崩御し「昭和」が長かったため一概には言えないが,それも含めた揺らぎが,ある種人間的なのかもしれない.

*3:まだ設立して何年めかの未来館の自由研究コンテストに応募し,何かを受賞して,毛利衛館長と握手した覚えがある笑

*4:音楽部に入っていたが,年2回程度のコンサート以外は自主練であるため,そこまで真面目でなかった僕は,実質帰宅部になっていた

*5:風邪薬の成分としては,アスピリンアセトアミノフェンイブプロフェンが代表的であり,このうちアセトアミノフェンは,アスピリン喘息のような副作用が少ないとして,よく使用されている.「カロナール錠」(https://database.japic.or.jp/pdf/newPINS/00063312.pdf)を薬局で処方されたことがある人は,まさにその有効成分がアセトアミノフェンである.

*6:http://www.dbs.c.u-tokyo.ac.jp/labo/c_koji_fukushima.html

*7:http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/research/faculty/list/mds/mds-bs/f002571.html

*8:http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/research/faculty/list/mds/mds-bs/f002570.html

*9:http://www.dbs.c.u-tokyo.ac.jp/labo/c_chisa_hotta.html

*10:物工と情報理工への進学のススメに関しては,どこかの機会にもう少し詳しく書いてみることにするのでしばしお待ちを^^

*11:http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/research/faculty/list/mds/mds-bs/f002557.html

*12:科学哲学に関しても,どこかでまとめるつもりではいるのでしばし?お待ちを^^

*13:ただそれらの思考やコンセプトを「研究」という形に落とし込むのはなかなか難しく,今手がつけやすいところから自分のペースで進めていっている.

備忘録:なぜ「氷川神社」は東京近郊に多いのか?(前編)

はじめに

2ヶ月ぶりの更新.3月4月と慌ただしく色々こなしていたら書く暇がなかった,というよりも,最初の方の記事を重くしすぎたせいでハードルを上げてしまっていたのが大きい気がする.流石に1記事が1万字程度になるのは,趣味程度の書き物の丈に合わない.

なので,雑感としてTwitterなどで呟ききれないけれど掘り下げたい話題だとか,日々面白いと思った話題を取り上げれば,世の中のニッチな物好きがだんだん集まってくれないかという,密かな期待を持って,テイストを軽めにしつつ?書き留めてみる.

渋谷氷川神社を訪ねて

先日,応用情報技術者試験*1國學院大学の渋谷キャンパスを来訪したついでに,氷川神社という近くの神社にお参りに行った.

f:id:yuuki-philosophia:20190423001020j:plain 神社庁のホームページ(http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/shibuya/3272/)によれば,境内が4000坪あるらしく,渋谷の一等地に4000坪持ってるのすごすぎでは,という心持ちはさておき,寺社仏閣の建築は,流石に美しいのと,何より神社の境内ののどかな雰囲気が好きなので,近くに神社か川があると吸い寄せられるのだが,例に漏れずこの神社も,アットホームで人も少なく,午前と午後の試験の合間に気分転換に来るには最高の環境だった.

そういえば,ここで手水・参拝の作法をまとめてみよう.知ってるとちょっと得した気分になる上,友達に説明したりして,コミュ障の僕でも会話が弾む()ので,一石三鳥くらいの知識である.何より,このブログをわざわざ読んでくださってる方へのせめてものお役立ち情報ということで. 

手水の作法

手水(ちょうず)は,「左→右→左ですくって口→左→柄杓の柄」で覚えると良い.

  1. 右手で柄杓を持って,左手を洗う
  2. 左手に柄杓を持ち替えて,右手を洗う
  3. 右手に再度持ち替えて,左手に水を受け,受けた水で口をすすぐ.柄杓から直接口を洗うのではない(純粋に不衛生)ので注意.
  4. 左手が,口すすぎの過程で汚れてしまったので?*2,再度左手を洗う.
  5. 最後に残った水で柄杓の柄を洗う.左手を洗ったところで水を流してしまう人がいるが,最後に柄を洗って戻すのが,マナーでもあるしお作法に含まれる.

と,ざっとこんな感じである.大きな神社だと大抵書いてあることが多いのだが,町の小さな神社の手水舎だと書いていないことが多いので,「左→右→左ですくって口→左→柄杓の柄」を覚えておくと,京都に行った時やお参り日和の際に便利であろう.

 

参拝の作法

神社と仏閣で大きく違うことに注意しよう.結論から言えば,神社は手を叩くが,寺院・仏閣では手を叩かない.

これは,「お参りの対象がどういう立ち位置か?」を紐解けば,自ずと理解できる.

まず神社.神社は,その土地に根ざした神様にお参りする.神様には,「私はここにいますよ〜!」とアピールが必要なのである.神社に行くと,紐を垂らした鈴,本坪鈴(ほんつぼすず)がつけてある場所もあり,これもアピールに使って良いのである.手を打ち鳴らすのを「柏手(かしわで)を打つ」というが,この柏手を打ったり,本坪鈴を鳴らしたりすることで,神様を自分(参拝者)のもとに引き寄せるところから参拝が始まる.また,本坪鈴の名前を教えてくれたサイト(https://syukatsulabo.jp/article/8753)によれば,穢れを祓う効果も謳われている.

一方で,寺院・仏閣では手を叩く必要がない.手を叩かずに,その場で「合掌」する.これは,神様と違って目の前にすでに仏様が目の前にいるので,合掌するだけで十分なのである.

ただ,お寺さん(http://kouboudaishi.main.jp/%E3%80%90%E5%B7%A1%E7%A4%BC%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%80%91%E5%AF%BA%E9%99%A2%E3%81%A7%E6%89%8B%E3%82%92%E5%8F%A9%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%AF%E5%A4%89%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F/)によれば,古来は「手を叩く=喜びの象徴」でもあったらしく,NGではないらしい.なかなか難しいものだ...

さて,翻って神社に限ってお参りの作法を書くならば,ご存知の方も多いだろう「二礼・二拍手・一礼」である.二拍手をした後,お祈りをするが,ここで

「払え給い 清め給え 神(かむ)ながら 守り給い 幸い給え」

というごく短いご挨拶,祝詞(のりと)を唱えても良いだろう.親切な神社だとお賽銭箱の後ろにこれが書いてあったりもするが,これは神社にお参りするときのご挨拶とお願いの定型句,という理解で良いと思う.

なお,神社chなるサイト(https://zinja-omairi.com/nirei/)があって,ここによればこの習慣ができたのは戦後のGHQ占領下の中で,神道が一宗教に格下げされる過程で生じた習慣らしい.意外と歴史が新しいものだと知って,ちょっと驚きである.

むしろそれまでは,お参り作法が自由だったというから,むしろルールを作った方が「宗教度合い」が高まるが,そのルールを作ることを通して,生活と密着した信念から,世俗と分離した「一宗教」にしようとした,という戦略は,少しばかり意外性があって面白い.

 

さて,どちらが本題かよくわからなくなったが,余談はそれくらいに.お作法に倣って,と言っても冒頭の二礼を忘れて神様を慌てて呼んでしまったので偉そうに書く筋ではないのだが,無事参拝を終えたのち,今年初のおみくじを引いてみた.

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久々の大吉を引き,テンションが上がったのであるが,この大吉,よくよく読んでみると...

願事:叶い難いようですが半ばより案外安く叶う

失物:出ず 遅ければなし

いやいや,お前大吉なくせに願い事叶わないのかよ,失くし物でてこないのかよ,とよく見ると爆笑してしまいつつ,お財布に大切にしまって,今後の諸々の安泰と進展を願っておくこととする.

なぜ「氷川神社」は東京近郊に多いのか?

渋谷氷川神社は,とても素敵な神社であった.しかし,よく考えてみると,母校の通学路の途中にも「氷川神社」があったし,東京近郊の観光地を歩いていると「氷川神社」という文字を頻繁に見かける.

おそらく,皆さんの地元にも「氷川神社」という名前の神社はなかっただろうか?ちょっと調べてみると,東京近郊に「氷川神社」と名のつく神社は,200社以上あるそうだ.しかも東京と埼玉,昔でいう武蔵国に偏って多いという.

 

さて,枕にしては長話が過ぎてしまったが,一体なぜ,「氷川神社」は,東京近郊,それも東京と埼玉に多いのか? この謎を解く鍵は,埼玉の玄関口にもなっている「大宮」,何気無く口ずさむ大都会埼玉のあの街にあったのである^^

(後編に続く)

*1:一応資格は人並み以上に取っているのだが,資格試験の攻略記事?の需要があるらしいので,追って気が向いた時に書いてみる.ただ僕にあった勉強法が他の人に合うとは限らないから,どう書くのが後世に役立つのか,と悩ましいところ.

*2:本当かは知らないが自分はそう覚えている

寸評:東大現代文 平成30年度・野家啓一『歴史を哲学する』

*この記事は,東大現代文の点数を手っ取り早くあげたい方が来るところではないので悪しからず。やることがなく暇を持て余した受験生や,課題に飽きた大学生のための暇潰し程度の記事です。

はじめに

先日,偶然に東大の過去問を見てみたら,昨年の出題が野家啓一先生の著作で驚いたことを記憶している。ちょうど年末に同じ野家先生の『物語の哲学』(岩波現代文庫*1を拝読したので,文章自体も非常に身近に感じた。

東大のwebページ(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_01_18.html)をちょっと覗いてみると,「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」として,こう書かれている。

国語の入試問題は,「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて,高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし,文系・理系を問わず,現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。

(中略)

学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは,総合的な国語力を養うよう心掛けてください。

東大Webページ「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」国語

なるほど,「自己の体験総体を媒介に考える」とは,まさにここ最近の生活の「体験総体」として文章を解釈することが許されているようだ。そんな訳で東大の過去問の解釈を書いてみる*2。記事を増やしていくつもりだが,恐らく一つ一つそこそこ重いので,回を分けて書いていきたい。

 

平成30年度入試(野家啓一『歴史を哲学するー七日間の集中講義』*3

テーマ自体は,歴史哲学・物語論だが,著者の野家啓一氏が理系出身で科学哲学者というのもあり,著作の中の例示にその片鱗を見ることができる。以下,いくつかの章題をつけて,解釈を試みたいと思う。

物語り行為と歴史

余りに単純で身も蓋もない話ですが,過去は知覚的に見ることも,聞くことも,触ることもできず,ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが,歴史的過去においては「物語り行為」であるというのが僕の主張にほかなりません。

1185年 守護・地頭の設置,1192年 鎌倉幕府の成立...。歴史の教科書には,さもその現場を見てきたように書かれている。歴史小説大河ドラマにも戦国武将や明治維新の志士たちが活き活きと描かれている。しかし,これら教科書や小説・ドラマを描いている人間は誰一人としてその戦の現場,明治維新のその時を見た者はいない。一体,なぜそのドラマを,史実を描けるのか?あるいは,そもそも歴史は,所詮誰かが見たように書いているだけの,フィクションに過ぎないのではないか?こんな問いかけに始まっている。

歴史を記述するには,解釈が生み出す「物語り」行為が必要となる*4。ちょうど「鎌倉幕府の成立」を巡って解釈が割れた話を思い出して取り上げたが,「物語り」行為において,中立的な神の視点からの観察は不可能である。なぜなら,歴史家本人もまた歴史の中に存在しており,歴史学の流れの中に存在しているから。E. H. カーは『歴史とは何か』の中で,「歴史は現在と過去との対話である」という印象的なフレーズを残しているが,まさに過去との対話なしに,物語りとしての歴史は存在し得ない。

さらに歩みを進めるならば,例えば,昨日こだわりやで唐揚げとチキン南蛮のハーフアンドハーフ*5を食べただとか,先週末どこに行ったかだとか,そう行った自身の体験自体も,今の自分が「なま」の状態で眼前に出すことはできない。野家は,前者の「史料や発掘から明らかになった歴史的出来事」を歴史的過去とし,後者の「自身が体験した過去の出来事」を体験的過去としている。

 

理論的「探究」の手続きの重要性:仮説演繹法と科学理論

以上の話から,物理学に見られるような理論的「探究」の手続きが,「物理的事実」のみならず「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。

歴史的過去も,体験的過去も,必然的に解釈の過程が存在する。これは,完璧に中立的ではありえない。 個々人の思想や価値観による部分もあるし,経験に依存する部分もあるだろう。「パラダイム」論がいうような,学者の合意形成によって成立する部分もあるかもしれない。

この「解釈」の不可避性は,学問の広範な領域に空気のよう漂っている。学問はそれとどう向き合うかを考える必要がある。その中で,科学技術研究の中では,理論的探究の方法論が確立していった。のちに,社会科学・人文科学にもそれを応用する形で広がって行ったようである。その一部を私の理解している範囲で書いてみよう。

科学理論の存立に一役買うのは「仮説演繹法と呼ばれるプロセスである。ある科学的な現象をみつけたら,そこから仮説を生み出し,それに基づき,ある科学理論を作る。その科学理論は(理論が適用範囲とする)別の現象を正しく予言できるかテストされる。大まかにこんな流れで学問が構築されていく。

例を挙げてみよう。私の今の専攻は典型例としては出しづらいので,学部時代の物性物理学,特に超伝導を例にとろう。

超伝導分野の研究は,1911年,H. K. Onnesが発見した。水銀の電気抵抗を温度を下げながら測っていった際,あるところ(4.2 K)で突然ゼロになる*6不可思議な現象が起こったのである。

さて,ここから科学的方法に則るとどのように動くのだろうか。まず,この不可思議な現象に対して,既存の理論から様々な仮説が立てられる。

  1. そもそもOnnesの測定方法が誤りだったのではないか。同じ物質を別の研究者がやれば,その値は変わるのではないか。
  2. 別の物質ではどうなのか?水銀に特有の性質なのか?
  3. 物性物理学の既存理論(電子が電気伝導を担い,電気抵抗率は絶対零度ではゼロになる)によって説明がつくか?

といった問いが生まれる。この問いに付随して,様々な仮説が生まれ,これらが検証されるプロセス(再現性の確認)が入る。次いで,それらの仮説の中から,新しい科学理論が生まれてくる。超伝導の理論は,London方程式に始まり,GL理論,BCS理論と時代を下るごとに新たな理論が提案されてきた*7。そして,これらの理論はテスト(検証)され,現象の説明がどこまで可能かについてが検証される。もし,テストに合格しない(反証された)場合は,その理論の「枠」の外側に説明できない現象が存在するかもしれないということで,新たな理論や既存の理論の修正が求められる。

概略ではあるが,こんなプロセスを繰り返すことによって,科学は「限りなく中立で客観的で,なおかつ謙虚な理論体系」として飛躍的な発展を遂げてきた*8

また,歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存知の通りです。その意味で,歴史的事実を一種の「理論的存在」として特徴付けることは,抵抗感はあるでしょうが,それほど乱暴な議論ではありません。

本文では,「歴史的事実」の確定もまた,史料分析や年代測定によってなされる点で科学的なプロセスと類似をみており,その結果生じた「歴史的事実」は,ある種の「理論的存在」になることが述べられている。さらに,日付変更線や赤道といった例の「実在」も,天文学や地理学の理論によって成立する「理論的存在」ということを指摘している。

この「素粒子」と「フランス革命」と「赤道」の3つを挙げて「理論的存在」というキーワードで結びつけてしまうのが,著者の広範な教養と思考のなせる技であり,初めて読んだときは,「いや,それ確かに言われてみればそうだろうな〜。自分でその例を出せといわれたら無理だけど。」という尊敬の念に堪えなかった。

 

「神の視点」が不在である中での,「物語り」行為の意味

...すなわち「物語り」のネットワークに支えられています。このネットワークから独立に「前九年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者,すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。...つまり「前九年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり,その存在性格は認識論的にみれば,素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。

野家が「物語り」と「物語」を区別している一つは,この文章に現れている。つまり,歴史的事実は,歴史書や史料が「物語る」ことあるいは平家物語のような琵琶法師の「物語る」行為そのもの*9が存在することによって成立し,全てを鳥瞰し書き留めるような「神の視点」は存在しないけれども,そのネットワークに支えられる形で一つの歴史的事実が存在している。誰もが好きな「物語」を語っているのが歴史学ではなく,物語り行為を通じて,それを支えにして度重なる検証や考証の末に,歴史的事実が紡がれていく,そんな歴史学のあり方を示している。何より,「物語り負荷的」の「負荷」という単語の選択に,筆者の妙を感じる。

最初の問いに答えるならば,史料や歴史書が「物語る」ネットワークに支えられて歴史的事実が「理論的存在」としての地位を確保できる,その点でフィクションとしての歴史と一線を画す,というのが,筆者の論の骨子であろう。

 

私自身,科学コミュニケーションをはじめとした対話デザインを手がける機会が多いため,コミュニケーションにおける解釈の問題とその中で理論的存在や科学理論などをどう扱っていくかは積年の課題である。今は,コミュニケーションの中の表現の部分に興味を持って小説を片手間に読み漁ったり書いたりしているが,ナラティブ・アプローチ(物語り論)にも注目していきたいように思う。

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4006001398

*2:なお「解説」でなく「解釈」なので,傍線部への解答を示すことは特段しないし,私見や私なりの理解が多分に入ることをお許しいただきたい。いくつか本を紹介するはずなので,ぜひご自身で生の情報に触れてほしいと思う。また,入試問題は東大公式のリンクを貼っているが,恐らく時が経つと消えていくので,某ハイスクールや赤本・書籍自体などを参照していただきたい。

*3:https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400081295.pdf , https://www.amazon.co.jp/dp/4006003420

*4:ここで「物語り」と動詞の形で使っている点に注目したい。野家は,「物語(story)」としての完成物ではなく,「物語る(narrative)」行為そのものを哲学しようと試みている。歴史哲学 - Wikipedia

*5:本郷近くのお店で,ワインが美味しいし,鶏料理も美味しいので大変オススメである

*6:「これは超伝導体である」と主張する論文を見ると,大抵の場合,この「突然ゼロになる」グラフが出されている。

*7:こう書いたものの,今ホットな分野の一つは,むしろそのBCSの壁を破ったYBCOや鉄系の高温超伝導体の研究,重い電子系など,既存の理論で説明しきれない現象が数多く報告され,また理論と検証を組み立てている段階のよう。最近1年,あまり動向を追ってないので現在進行形で物性物理の専門の方に聞いた方が良いと思いますが。

*8:ただ,生物学の分野など再現性が取りづらい分野もあると聞くし,最先端の研究だと,それこそ素粒子をぶつけてごく稀に信号が取れる,というような事項もあるので,一概には言えないだろうが。

*9:『物語の哲学』では,柳田國男の口承伝達,民間伝承に注目した一場面があったことを思い出す

雑記:NTT研究所・インターン体験談

はじめに

先日,NTT厚木研究開発センターにて,2週間の研究インターンに参加した。普段はこのブログを「日常のエモさ」の言語化と思考の整理に使っていたけれども,たまには需要がありそうな?話題を取り上げてみる。

なお「体験談」と銘打っている通り,記事内容の一切は,私の眼を通して見た「解釈」が多分に入っていることを十分にご留意いただいた上でお読みいただきたい。今後,NTT研究所のインターンシップ等に参加する方や,就職先として気になっている方の参考になれば幸いである。「立地・生活環境」以降が,本質的な体験談なので,お急ぎの方はそこから読んでいただくのが良いと思う。

NTT研究所とは?

NTTデータNTTコミュニケーションズNTTドコモ...。NTTを冠した会社がいくつあるか把握しきれていないが,NTTの研究所(http://www.ntt.co.jp/RD/organization/lab.html)はその名の通り,研究開発を担う人々が集う場所である。さらに研究所といっても,物性,量子コンピュータ,ネットワーク・セキュリティ,ヒューマンインタフェース,心理学など,扱う分野は多岐にわたる。東大の応用物理系(物理工学科・計数工学科)の規模を十倍くらいに引き伸ばして,一部に心理学方面の研究者が加わって一つの研究組織になっているのをイメージだろうか。

毎年1-2回程度,R&Dフォーラム(https://labevent.ecl.ntt.co.jp/)が催され,面白い研究たちが武蔵野の研究開発センターに一堂に会する。私も昨年11月のR&Dフォーラムに参加したが,錯視を利用したプロジェクションの研究*1や,オリンピックを見据えたスポーツ放映に関する研究*2など,ワクワクするものが盛りだくさんで一日遊べてしまった。

NTT厚木研究所の立ち位置

厚木の研究所では,量子光学系の研究(物性科学基礎研究所*3)やユーザインタフェース系,音声信号処理の研究(コミュニケーション基礎科学研究所:*4)が行われている。関東圏だと,横須賀と武蔵野に研究所があるが,厚木の研究所は他の研究所よりも基礎的な研究を行なっているという。担当していただいた社員さん曰く「横須賀や武蔵野の研究は,半年後,一年後に応用できそうな話題に取り組むけれど,厚木は5年から10年スパンを見据えた研究をやっているから,そういう意味では大学に近いかもね。」とのこと。実際,各部屋の前にポスターが掲示されているのだが,「この研究と近いこと,東大の--先生がやっていたよな。」とか「出ている学会,普通に知っているのだが」など,国際学会や論文誌にも積極的に出しつつ,会社のお金で研究をやる研究所のようだ。

 

生活環境と研究環境

交通と立地

厚木研究所の立地はGoogle Map*5で見ていただくとわかるのだが,あたり一体山の中で基本的に何もない場所()である。冬なので幸いにして?巡り合わなかったが,鹿や猿はそこそこの頻度で現れるという。

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とある研究所から臨む風景

また,隣のバス停が日産の先端研だったり,本厚木駅の反対側にソニーの関連研究所があったり,この一体が企業の研究城下町になっている場所でもある。

アクセスは,本厚木駅からバスで20-30分程度,都心から通おうとすると,車で1-1.5時間,電車で1.5-2時間である。私の場合はアクセスが悪く,小田急快速急行に乗れても1.5時間くらいかかったので,駅近くのウィークリーマンションに宿を取ってもらった。

担当していただいた社員さんは,若い頃は独身寮,その後車で10分くらいの厚木市内の物件に移り,今は都内から車で1時間程度で通っているという。

裁量労働制と在外勤務

「何かしら結果が出ればOK」の裁量労働制を取っている上,月7日まで在外勤務(会社に出勤せず外で勤務する)が認められているので,働き方改革など待たずとも相当自由な働き方が許されているようだ。「子どもの体調が悪いから」と午前中は奥さんが,午後は旦那さんが交代で在外勤務や有給を取ることもあったという。社員さんは9:00ごろだと高速が混むので,10:00ごろに出勤しているという。

ただ,裁量労働制なので残業という概念があまりない。大学の研究室さながら,結構遅くまで残る人が多い。ただ,7:00 - 22:00が研究所の門限で,徹夜で泊まり込みは「基本的には」NGという。ただ徹夜で実験している人もいるらしいので,申請すればできないことはないよう。

実際,インターン中も「あ,これは今日の夜中,僕がやれる時にやっておくよ」と言われ,研究室の助教さんとの会話のデジャブを感じた。インターン生も「早く帰れ」と急かされることなく,22時ギリギリまで残ることもあった。「定時退社」という概念が希薄なので,良し悪しというよりも,合うか合わないかの問題な気がする。

社員の雰囲気

限りなく大学に近いので,良くも悪くも「社会性」が求められない。大学の研究室と同じく,ミーティングがあり,グループ内で研究報告をしてそれに対するディスカッションの機会が週1回設けられているようだが,「先輩も上司も構わずタメ口を聞く」方もいる*6ようで,他社のように「社会性」を求められるよりも,「研究者としての適正」を見られるようで,研究が肌に合っている人には向いているかもしれない。

私の担当をしていただいた社員さんも,結構マニアックな研究を20年くらいなさっている方で,結果が出たら適宜ディスカッションをさせて貰ったが,「このデータってどういう根拠で出ているの?」「このパラメータは,どうして選んだの?」とか,大学の教員とディスカッションをしているのと同じ雰囲気を感じた。

食事関連

私の行った研究所には,中にセブンイレブンが入っているのと,B1Fと1Fにそれぞれ食堂がある。B1Fの食堂は大学の食堂と値段,味ともほぼ変わらない。パスタは少し美味しかったけれど。1Fは接待用で用いられるというが,700-800円くらいで日替わりでトンカツや鉄板焼きを食べ,ソフトドリンクが飲み放題なので,プチ贅沢をしたい時には使そうである。鉄板焼きをいただいたが,普通に大学近くの外のお店で食べるより美味しかった笑。ただし,食堂はどちらも昼時以外は空いていない(?)らしい。

それ以外の徒歩圏内に店という店がなく,もし外で食べたい場合は車かバスで出る必要がある*7。午前中,研究所に来たら,夜帰るまで基本的には所内で過ごすことになりそうなので,グルメ好きには少し物足りないラインナップかもしれない。

研究環境

大学の小さな研究室と比べると,新入社員にも予算の裁量権は大きく与えられているようで,新人2年目で数百万円の機材を入れてもらった事例もあるという。ただ,規模が大きいので,申請書類等の事務手続きはそこそこ煩雑であるのと,上司を説得できないと大きな予算は使えないので,自身で申請して科研費を取って来た場合*8よりも執行権は得づらい場合が多いかもしれない。

事務専業や知財・特許関連の担当者がおり,大学教員ほど日々の雑務に追われることは少ないので,「純粋に研究をし続けたい」という人には,穴場なのかもしれない。ただ,一民間企業ではあるので,「企業を説得できるだけの研究意義」を持っている必要はあるだろうが*9

中の人のキャリア

研究所では修士以上しか募集をしていないが,学歴は修士が8割,博士が2割程度という。修士で研究所に入った場合は,研究所内での配属を(専攻や希望を考慮してはもらえるものの)選ぶことはできない。博士で入ると,自身の研究成果を踏まえてマッチングをとっていくという。博士で入ると,修士で入るよりも1ランク昇級したところから始まるため,修士卒はその1ランク分を埋める必要がある。また,修士で入った大半が,共同研究先や修士まで所属したラボに社会人博士として赴いて,博士を取るという。以前は,一部お金が支給されていたらしいが,今はその制度はなくなったとのこと。ただ,会社で給与をもらいながら取得が可能なので,「お金をもらいながら博士を取る」ことはできるようである。実際,私のラボの先輩が一人いた(修士卒で入社し,今はラボ所属時代とは別テーマをやっている)が,来年から社会人博士として博士号取得を目指すという。

研究所インターンのススメ

NTT研究所では,修士・博士の学生を対象に,適宜インターンを募集しているという。基本的に各部署ごと「受け入れたい人数」を出してマッチングを取るシステムで,私の時は面接はなく書類一本で通された。書類に「自身のスキル」として,情報系であればプログラミングスキルがそこそこ求められるので,何がしか制作経験や実装経験が述べられた方が良いかもしれない。

1週間〜2ヶ月程度,特定のプロジェクトに所属し,研究の一端をやる。無給なのが長期になると手痛い*10が,企業で一番基礎的な研究かつ広範な分野をカバーしている研究所だと思うので,興味がある方は応募してみると良いかもしれない。実際,この後私の2週間の成果も含める形で学会発表を目指して,連名で載せていただける?と聞いたので,テーマや担当の社員さんによっては多少の業績アップにも繋がるかもしれない。

おわりに

2週間という短い間であったが,普段の研究とちょっと違うテーマだったというのと,2週間である程度成果が出せるテーマだったので,「研究の面白さ」の部分を思い出す機会になった。気分転換がてら覗きに行くのも良いかもしれない。実際,やっているテーマはどれも面白そうだった笑

どちらにしろ博士は取らないとダメそうだという大きな気づきを得たので,大学で取るか,研究所などに就職してとるかは別にして,いくつかの分野に散逸している「やりたいこと」をうまく言語化して集積していこうと思う。学会への投稿を終えたら,論文を読み漁って,自分の研究も進めつつ,読書とか美術館巡りとか街歩きしたりとかもしつつ,「自分の研究の"research map"」を見定めていきたい。

追伸

次回予告?として,厚木グルメを投稿してみる。

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厚木グルメ(ラーメン / 地ビール

*1:変幻灯:https://labevent.ecl.ntt.co.jp/forum2018a/info/exhibit1/detail/A09.html

*2:https://labevent.ecl.ntt.co.jp/forum2018a/info/exhibit1/detail/A05.html

*3:http://www.brl.ntt.co.jp/J/index.html

*4:http://www.kecl.ntt.co.jp/rps/index.html

*5:https://goo.gl/maps/RM26K4AGzwM2

*6:「社会性」の軸からみると落とされそうだが,この会社は「なぜだか優秀な人を集めている」という。人事チームがどういう風を感じているのかはよくわからないが。

*7:厚木名物のシロコロホルモン,高座豚という神奈川のブランド豚を使ったハンバーグなど,色々なところに食べに行けたので,「グルメ巡り」としては結構楽しかった。多分,別ページで載せる。

*8:社員の中には自由に使える予算が欲しいと,出す人もいるという。大学の研究者からかなり煙たがられるらしいが。

*9:それは大学で予算を取りに行く時もそうな気がするが,「面白い」だけではなく「ビジネスになる」という観点がある程度入ってくるのが違いかもしれない。

*10:といいつつ社員さんに厚木グルメを奢って貰ったりしたので,「人の金で肉を食う」くらいはできるかもしれない?

読書メモ:湊かなえ『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』

湊かなえの作風:「一人称の語り/騙り」

湊かなえの作品は,大学1年の時に駒場の生協でイヤミスの代表格とされる『告白』を買って以来,その描写の独特さに惹かれる部分があった。彼女の作風が,他の作家と一線を画すのは、徹底して「一人称の語り/騙り」を描くところにある。普通の小説は,ナレーターが存在して,その部外者的な語り手に事実描写や風景描写を語らせることが多い。例えば,

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。

夏目漱石三四郎』一,冒頭)

じいさんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないとみえて、はじめのうちはただはいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと言いだした。

(同作,一)

というように,「女が、隣のじいさんと話し始めた」という事実が,その前にカメラが設置されているように描写されていく。あるいは「爺さんが玩具に興味がない」という解釈が,三人称の語りによって「興味がないと見える」という形で描かれる。

だが,湊かなえの小説は,徹底してその「カメラ・ナレーター=第三者的視点」の存在を拒否する。

有紗のことを、ですか?解りました。

有紗は6歳下の妹です。仲の良い姉妹だったこと問われると、どう返していいのかよく解りません。もう少し歳が近ければ、一緒に遊んだり、逆に、喧嘩をしたりしていたのでしょうが、...

湊かなえ『マイディアレスト』冒頭)

話し手が有紗=登場人物の一人,聞き手が調書を取る刑事=物語内の人物,いずれも物語内に実在する人物の語りとして,小説が展開していく。初期作である『告白』『贖罪』『少女』*1イヤミスと,後で紹介する『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』の連作などとを比べると,その作品の「ドロドロさ」が歳を経るごとにだいぶ穏やかになっている印象だが,彼女は一貫して「一人称語り」を徹底させている。

手法は多岐にわたり,私が把握しているだけでも,

・独白,独り言(『告白』・『少女』・『ポイズンドーター』etc.)

・対話,取調べなど(『贖罪』,『白ゆき姫殺人事件』,『Nのために』etc.)

・書簡,日記・手記(『往復書簡』,『山女日記』etc.)

・その他(『物語のおわり』*2,『夜行観覧車*3

など,様々な手法に挑戦しているとお見受けする。

この一人称の語りの最大の特徴は,我々が日常,会話している中でも起こる「都合の悪いことを嘘や黙秘で隠す」という「騙り」の描写にある。それを私は「一人称の語り/騙り」*4と呼んでいる。彼女の作品は,この描き方が恐ろしくリアルなのだ。登場人物の設定のリアリティさもあり,その人物から間近で語られるような体験が得られるが,その語りは決して全てが本当のことを言っているわけではない。叙述トリックものの作品は多く見かけるが,彼女はミステリーのトリック以上に日常に潜むものとして,克明に描き出している*5

 

『ポイズンドーター・ホーリーマザー』(光文社文庫

最近,『ポイズンドーター・ホーリーマザー』という短編集が文庫化された(https://www.amazon.co.jp/dp/4334776965/)。計6本の短編が収められている。そ,短編ごとに「語り手」と「敵役」が登場し,語り手の口から,いかに敵役なのかが語られるのだが,基本的に「語り手は騙り手」であるし,湊かなえの描写が「いや,それはさすがに思い込みでは?」みたいな書き方をしてくれるので,それがより浮き立っている。つまり,池井戸潤半沢直樹シリーズとか下町ロケットシリーズのような,あるいは,ドクターXや大河ドラマのような「勧善懲悪型」では決してない。「誰も悪くないはずなのに,すれ違いから悲劇に向かう」ことが全てに共通して描かれているように思う*6

全部を書いていると,いつ書き終わるかわからないので,ひとまず私自身が一番興味を持った『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』の連作についてレビューをしてみる。文庫の題名から読める通り,この作品は1編でも成りたつが,2編が組まれることでより深みを増している。

ただ,他の作品について知りたい方もいると思うので,ごく短くレビューを書いてみると,

・『マイディアレスト』:「姉妹」の対照を「姉」視点で描く。姉妹の対立に「母娘」の対立が重層的に組まれ,最後は,今邑彩的なホラーミステリーの調子で幕を閉じる。

・『ベストフレンド』:作家同士の芥川賞/直木賞的な賞を巡る争いを,一人の作家の視点から描く。叙述トリック的なミステリー調の強い作品。

・『罪深き女』:思春期?の男女の対照を女性視点から描く。その中に「母娘」の対照も組まれた作品。『母性』『少女』『贖罪』など,思春期の女子中高生と,母親など大人の女性との対立が描かれる作品は多いが,その色が感じられる短編。

・『優しい人』:最初に殺人事件のあらましが提示され,いくつかの証言を追っていく形式。『白ゆき姫殺人事件』的な「騙りの証言」の叙述が垣間見える。

という感じだろうか。

 

『ポイズンドーター』・『ホーリーマザー』

**ミステリーではないので「ネタバレ」が致命的になることはないと思いますが,一部小説内の描写を使っているので,その点をご留意ください。

この作品は,弓香(『ポイズンドーター』)と,弓香の友人・理穂とその母(『ホーリーマザー』)の視点*7から,両者の親子関係を巡った語りが展開され,さらに弓香と理穂の友人関係への語りも絡めた形で描かれる。

『Nのために』などで見られる,一つの事件を色々な視点から眺めていく過程を描いているが,あの小説と大きく違うのは,良くも悪くもこの小説がミステリーでない点にある。すなわち,ほぼ確からしい「真相」が提示されない。

例えば,「弓香が母親から本を読むことを勧められる場面」を取り上げてみる。これは2つの小説内で少なくとも3箇所で言及されている。

1. 弓香の回想1,母との対話の場面

(漫画を読んでいた弓香に)「本を読んで感動したいなら,まずお父さんの部屋にあるのを全部読みなさい。...私が同じ立場なら,父親が読んだ本を貪るように読んで,自分の中に父と同じ感覚はありはしないかと想いを馳せるわ。...お父さんは本好きだったことは,なんども聞かせたはずなのに。どうして伝わっていないのかしら...。...」

「ごめんなさい...。」(p.204)

2. 弓香の回想2

それよりも気になったのは,家にある本に,ほとんど人に読まれた形跡が見当たらないことだった。折り目も汚れもない。それだけなら,大切に読まれたと解釈できるが,全集案内などのチラシが挟まったままというのはどういうことなのか。箱が色あせ,ビニルカバーがかたくなっているのは,年月が経過した証であり,読まれた形跡ではない。

もしや,これらの本はただの飾りとして購入されたのではないか。直接,あの人にそんなことを確認する勇気は持てず,遠回しに尋ねた。(p.211)

3. 理穂の義母の回想

...ご主人は国語の教師だったこと。弓香ちゃんが生まれた時に,ご主人は日本文学全集と世界文学全集を記念に買ったということ。ご主人の実家にはそれらが揃っていたのに,わざわざ新品を買ったのは,弓香ちゃんが読めるようになった時,真新しい気持ちで物語に触れて欲しいと思ったからだと,ご主人が弓香ちゃんの頭を撫でながら言っていたこと。(p.254)

 「弓香が父の本を勧められる」ことが,1.では弓香の母,2.ではそれに呼応する形で弓香,3.ではさらにそれに応じる形で理穂の義母を通じて,語られている。果たして,どれが事実(=実際にあったこと,あるいはその事柄を神の視点で記述したもの)なのかはわからない。あるいは,どれが事実かなど,この場面においてあまり意味をなさない。彼女らにとっては,真実(=事実の解釈を通じて得た「信念」)が存在するのみである。弓香にとっては「真新しい本があった=全く使っていなかったのだろう」が真実であり,義母にとっては「真新しい本があった=父が娘を思って新品を購入した」が真実である。

象徴的なのが,3.で「ご主人が弓香ちゃんの頭を撫でながら言っていたこと。」と描かれている場面にある。この語りには,

・弓香は撫でられても,それを言われてもいない。「子煩悩である父と母」を演出するための誇張。

・弓香はそれに類する場面を体験しているが,母の誇張が含まれ,後半部分の「新品を買った理由」の場面は,説明が不足していた。

・弓香は実際に撫でられていた。しかし,弓香は父の発言を記憶に留めていなかった。

・弓香は実際に撫でられていた。しかし,母の支配を嫌った弓香は,母との対立の中で母が嘘をついているとの疑念に囚われ,「真新しい=本を読んでいない」という解釈に至った。

と,いくつもの解釈を加えることができる。どれも真実でありうるが,どれが事実かは読者には語られない。

この本の題名の「ポイズンドーター」「ホーリーマザー」は,「モンスターペアレント」と類似の系列で語られる「毒親」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E8%A6%AA)を「毒娘」と「聖母」にあてて,各々の物語を描いたのだろうが,果たして,彼女らは「毒」を持つのか,という疑問がこの小説を通じて滲みだされる。各々の視点から「毒親」あるいは「聖母」であることが描かれるが,同じ事実が二つの解釈を持つことによって生じていることが描き出されている。

湊かなえは,「母娘関係」の問題から「友人関係」,「家庭関係」の問題にまで重層的に組み込むところにも文才を発揮しているが,いずれも「解釈によるすれ違い」によって悲劇が生じることが,人間味あふれる人物たちに乗せて鋭く描き出している。ここ最近の彼女の作風は,初期三部作の「イヤミス」の勢いよりも,むしろ「誰も悪くないのに悲劇/すれ違いが起こる」というある種の不条理を描くところに「イヤミス」さを転換している。そして,『告白』のインパクトに比べ,些か見劣りする場面が多かったが,本作は,いよいよその方向で面白い小説を描く端緒を見ることができる。

今年に入って,今邑彩村田沙耶香とホラーとシュールを描く女流作家に出会ってきたが,湊かなえは,湊ワールドを拡大させつつ,独自の世界観・小説観を追求しているように感じる。

 

真実と解釈をめぐるオセロゲーム

湊かなえが問うた「解釈」の問題は,私自身が様々な場面で関心を持っている話題である。作中に「人生オセロ」という番組が登場し,ゲストの知人の「白い面と黒い面」を描く様子が記されるが,そもそも現実世界の情報のやり取りも,このオセロゲームに近いのではないだろうか。「真実と解釈をめぐるオセロゲーム」とでも言えるだろうか。

つまり,ある事実に対して「白」を信じる人もいるが,「黒」を信じる人もいる。そして「白」を信じる人にとっては,白が真実であり,「黒」を信じる人にとっては,黒が真実となる。「事実自体が解釈なしには存在し得ない」*8とすら言える。そもそも,神の視点からの一切中立の絶対的観察はこの世には存在しない。あるのは,ただ人間同士が事実を解釈し,それを発信し合うSNSやニュース,メディアがあるのみだ。

最近のフェイクニュースも,一部は明らかに「反証」ができるものであることがあるが,そこそこの割合で「解釈の違い」により生じるものがある。あるいは,SNSの炎上の原因も,その「解釈のすれ違い」に一つの原因を求めることはできるだろう。

日頃の人間関係においてもこの「解釈のすれ違い」は,往々にして生じる。ちょうど先日「なぜ人は悪口を言うのか?」という話に対して,「それは人に期待しているからだ」という解釈を試みた。つまり「他人に『こうあってほしい』と期待するが,その通りに行動しない」ことに対して悪口が発生するのであり,そもそも「相手は自分の思い通りにならない」という前提で,あるいは「悪口の発生原因は,相手そのものより相手と自分をつなぐ環境/空気の間に解釈が存在するから」と考えれば,いわゆる悪口の大半は防げるのではないだろうか*9アドラー心理学が一世を風靡したが,今の私が啓発本的なものを書くのなら(恐ろしく「啓発」が嫌いなので,書かないと思うけれど)さながら「空気の心理学」とでもいう,その「解釈のすれ違い」の問題を取り上げることになるだろう。

あるいは「科学」についても,科学哲学によって似た文脈で語られる。科学は,「真実=信仰であり,事実など存在しないから追い求めても無駄である」とするニヒリズムに,限りなく客観的,中立的な真実を導き出すため,その手続きをもって,他の宗教や信仰とは一線を画している。仮説演繹(ハーシェル)あるいは反証可能性ポパー)的手続きは,科学が科学たり得る所以を求めた一つの解釈であるが,疑似科学や非科学に科学がどのように対処・対応し,科学者やサイエンスコミュニケーターがどのように発信すべきか,その発信や対処・対応にもすべからく「解釈」が入るので,科学の科学性の担保のために,その方法論を追求していく必要はあるだろう。

 

おわりに

湊かなえは,自身の「一人称語り/騙り」の得意技を使い,その神の視点の排除をした先に見える真実の折り重なりを描き出そうとしている。『白ゆき姫殺人事件』は,SNSの脆さを取り上げ,その「解釈」があらぬ方向に爆発していく様を描き出し,『Nのために』は,皆誰かのためにその場に存在したが,各々の思いが恐ろしくすれ違っている様を描き出した。

彼女の「一人称視点」により描き出される独特な世界観,恐らくハマる人はめちゃめちゃハマると思うので,湊作品を読まれたことがない方は,ぜひ一読いただきたい。本作や,『Nのために』『物語のおわり』あたりは入りやすい作品だと思う。

私自身も,一ファンとして,その独特な世界観を追い続けたい。

 

*1:湊かなえの「初期三部作」と勝手に呼ばせていただいている

*2:登場人物たちが,一つの物語を思い思いの感想を述べながら,バトンリレーのようにその原稿を順に手渡していく。作中作の読み方を通じて人物像を描き出そうとしている。

*3:珍しく三人称的なカメラが想定され得る作品だが,その語りの随所に一人称的な騙りを織り交ぜる技巧が凝らされている。

*4:高校時代,何かの作品を読んだ時に,現代文の教員が「語りは騙り」と書いたところにアイデアの端を発する。確か,同じく「余」の一人称語りで展開する森鴎外の『舞姫』だったように思う。

*5:彼女の作品は,その多くがドラマ化されているが,そもそも彼女の作品自体が「カメラ」の存在を拒否するので,カメラが否応なく入り込む映像としては作りにくいだろうし,原作ファンとしては,そのドラマが彼女の作品の魅力が引き出せているのか些か疑問がある。

*6:勧善懲悪型の方が構図としてわかりやすいし,ある種カッコ良いからアイドル化されやすいのだが,彼女の小説には「絶対的に悪い人」も「絶対的に良い人」も出てこない。おそらく小説を読んだ後に,ある人物に共感し,別の人物を貶すような感想を持つ人も多いだろうが,その人物がおそらく人によって違うのが面白い。

*7:特に『ホーリーマザー』の方は,かなり頻繁に語り手が入れ替わるので,母と娘両方から描かれることを念頭に置いて読むと読みやすいと思う。私も初見でなぜ「娘」と言っていた次のページで「義母」と言い出したのかと頭を抱えていた...。

*8:主に歴史学の文脈で語られているように思う。野家啓一『物語の哲学』の論説,あるいはソフトに取り上げた宮部みゆき『悲嘆の門』がある。

*9:ただ,過労死云々とか本当にどうしようもない話も時々聞くので,その場合は頼れなくなる精神状態になる前に全力で人を頼るか,法に頼るかをしてください...。幸い今の環境が過ごしやすいだけであって,私自身の将来を見ると,全く人ごとではないのだけれど...。

幼児向けアニソン傾聴のススメ(試論)

ドラえもんポケモンアンパンマンとの再会

先日,友人とカラオケに行った際,ふとしたきっかけでアニメソング(アニソン),それもドラえもんポケモンアンパンマンなど,子どもの頃によく見るようなアニメソングの掛け合いになった。カラオケに来た大人が,宇多田ヒカルのFirst Loveだとか,米津玄師のlemonを歌うことはあっても,アンパンマンのマーチめざせポケモンマスターといった曲を入れることは,よほどの物好きでもない限り歌わないだろう。

しかし,この歌詞を眺めていると,中々深いことを言っているのである。幼稚園生や小学生にこれを聴かせるのか,というくらいには。10年単位で聴いていない方も多いと思うが,ぜひ一度聴いてみて欲しい。何十年も世代を超えて語り継がれる国民的アニメは,やはりそれにふさわしい威風堂々たる国民的アニメソングが脇を固めていたようである。

これらアニソンが何をどう伝えようとしていたのか。以下,具体的に何曲か挙げてみながら,少しばかり私なりの考察を書き留めてみようと思う。

 

その1 『夢をかなえてドラえもん』(ドラえもん*1

ドラえもんの声優が,大山のぶ代から水田わさびへと変わった後のオープニング曲である。「こんなこといいな〜できたらいいな〜」という古いオープニング曲が馴染んでいた私は,水田わさびドラえもんとこのオープニングが少し違和感を持った子ども時代もあったが,今の子たちは,むしろ大山のぶ代ドラえもんを知らないと思うと,中々のジェネレーションギャップを感じる。

心の中 いつもいつも描いてる(描いてる)

夢を乗せた 自分だけの世界地図(タケコプター〜)

空を飛んで時間を越えて 遠い国でも

ドアを開けてほら行きたいよ 今すぐ(どこでもドア〜)

大人になったら忘れちゃうのかな

そんな時には思い出してみよう

「空を飛べるかな?」「昔の自分に会えるかな?」

子どもの頃は,できることできないこと関係なしに,色々と空想に浸ってはまさに「自分だけの世界地図」を描いていた。「世界地図」の部分を「学問/知識の地図」と読み換えるならば,彼らの中で描かれた素朴概念・経験知を指しているとも解釈できる。

もちろん,その「自分だけの世界地図」は科学的に間違っている場合もあり,それは教育の中で発見され,修正されていく。しかし,私たちは教育の成果によって,幸か不幸か「自分だけの世界地図」をあまりに失いすぎではないだろうか。後半の「大人になったら忘れちゃうのかな?」という言葉は,それをストレートに言い当てている。

「自分がこうありたい」「世界がこうあってほしい」という欲求は,得てして行動の原動力となることが多い。むしろ,教育として「自分だけの世界地図」をしっかり持たせるようなものは模索されえないのだろうか*2

やりたいこと 行きたい場所 見つけたら(見つけたら)

迷わないで 靴を履いて 出かけよう(タイムマシン〜)

大丈夫さ ひとりじゃない 僕がいるから

キラキラ輝く 宝物探そうよ(四次元ポケット〜)

道に迷っても泣かないでいいよ

秘密の道具で 助けてあげるよ

...(後略)

「カブトムシ,取りに行きたい!」「たくさん星が見えるところに行きたい!」

幼稚園や小学校低学年の子供達が,しきりに父や母の説得を試みる姿が容易に想像できる。歌詞の前半部は,やりたいことや行きたい場所が見つかったら,迷わず出かけようと,自分の好奇心やモチベーションを大切に,そしてそれをそのまま持って外に飛び出していってほしいというメッセージが伝わってくる。ラッセルの『幸福論』にも示された,「外への興味」が幸福の源泉であるとする幸福観にも近いのだろう。

日々の仕事や学業と人間関係の調整に忙殺され,3000円の虚無生産飲み会と気晴らし手段としての旅行やエンタメ施設訪問に支配される日常。「やりたいこと」「行きたい場所」すら段々と見出せなくなってくる大人社会に痛烈な皮肉を投げかけているようにすら感じる*3

さらに,後半部は『ドラえもん』全体の世界観も反映している。自分は,「君のすぐ隣にいて,困った時に助けてくれるロボット」だと。

そのドラえもんを頼りにしながら,好奇心を持って外に飛び出し,「宝物=自分が心から素敵だと思えるもの」を探してほしい。たとえその過程で「道に迷っても=何かうまくいかないことがあっても」,一人じゃない,助けてくれる人やロボットがいる。それを信じて前に進んでほしい。そんなメッセージを感じ取った*4

これは,次のポケモンの歌にもある「うまくいかない時は必ずある。だけどそこには,助けてくれる仲間たちがいる」とする人生観にも通ずる。大半の大人が失っている「好奇心で外に飛び出す精神」を是とし,そこを軸に人やロボットと協力しながら,夢をかなえていこうという哲学が見えてくるのである。

その2 『めざせポケモンマスター』(ポケットモンスター*5

この曲を聴いて育ったといっても過言ではない。ルビサファからダイパ世代であり,最近の話題にはついていけなくなってきたが,中学の定期試験の勉強を右手でして,左手でズイタウンの育て屋ロードを快走していた自分*6は,一時期本気でポケモンマスターを目指す気だったとすら思える。

この曲の歌詞では,いわゆるBメロ?にメッセージが込められているように感じる。

いつもいつでも うまくゆくなんて

保証はどこにも ないけど(そりゃそうじゃ)

いつでもいつも 本気で生きてる

こいつたちがいる

「こいつたち」が「本気で生きてる」という表現。感情にストレートに訴えてくる言葉である。ここでいう「こいつ」の指示対象は,ポケモンたちだけでなく,カスミやタケシ,そして旅路で出会う数多くの人々も入っているように思う。「頑張って」ではなく「本気で」と書いたところに作詞の妙を感じる。ここでいう「本気」には,「頑張る/頑張れない」という次元ではなく,「人間を含め全ての動物は,存在し生きていること,その時点で常に『本気』である」という,「懸命に生きている」その事実への畏敬の念が,何気なく感じ取れる。

昨日の敵は 今日の友って

古い言葉が あるけど(古いとはなんじゃ)

今日の友は 明日も友達

そうさ 永遠に

ワンピースの「仲間はみんな助ける」という発想や,試合の外では敵味方関係なく皆が友であるというラグビーの精神に通ずる部分がある。

ポケモンには,ご存知の通りロケット団という敵役がいるのだが,この敵役が悪役じみていないのである。あまりに行動が稚拙であるし,何しろ恐ろしく前向きである。池井戸潤が描く「勧善懲悪型」すなわち「極悪人に正義の鉄槌を下す」という形式では描かれていない。むしろ,見ている側は,彼らに「悪い奴らだけど,なんか憎めない」という印象を持つ。ドラえもんジャイアンスネ夫然り,アンパンマンばいきんまん然り,これは共通した印象である。

クラスの中にいる「ガキ大将」や「威張りっ子」,何かちょっと冷たい上司,世の中に「悪」とされる人々は,意外に多い*7。しかし,彼らの「悪」は,ジャイアンが映画だとのび太を助けるヒーローになるように,ロケット団がサトシたちのピンチにさりげなく手を差し伸べることがあるように,純粋な極悪非道ではないのである。自分たちの見方を変えれば,あるいは時と場合が変われば...。「悪」とし断罪しようとしているものが,相対的であるかもしれないという批判精神の醸成を訴えているのだろうか*8

そう考えると,『半沢直樹』『ドクターX』『ブラック・ペアン』など勧善懲悪の単純な構図よりも,より重層的な「悪と正義」の問いが,これらのアニメに描かれているのだろう。

夢はいつか 本当になるって

誰かが歌っていたけど

つぼみがいつか 花開くように

夢は 叶うもの

「つぼみがいつか花開くように 夢は叶うもの」

この表現が文学的で中々に趣深い。「つぼみ」と「花」という例えは,もしかしたら「水をあげねば枯れてしまう」という植物のメタファーから取ってきたのかもしれない。ドラえもんの楽曲が訴える「好奇心を元に外に出よう」という精神のように,「好奇心が枯れると花も夢も枯れる」ということを訴えたかったのだろうか*9

その3 『アンパンマンのマーチ』(アンパンマン*10

アンパンマン。顔があんパンで出来ていて,お腹が空いている子供達に自分の顔をちぎって食べさせてあげ,バイキンマンなどの悪者を「アンパンチ」と倒すヒーローである。この曲が「心肺蘇生法」における,心臓マッサージのリズムと一致することから,「AEDが来るまで,アンパンマンのマーチのリズムを刻みながら心マしろ」と言われ,その歌詞があまりに「生」を深く問うていることから,それは如何なものか,としばしばネタにされることもある。

やなせ氏自身も「アンパンマンに込められた哲学」を語っている*11。特に,同記事からの引用で学芸員倉持氏の解説を追っていくと,

(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した街も,どうなったのかわからない。そういうヒーローって,本当の正義なんだろうか。本当にお腹が空いて困って,ひとりぼっちで寂しくてっていう人のところには,そういうヒーローは,なぜか現れない。

誰を一体助けているんだろう,そういう疑問があって,それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。

(中略)

お腹が空いた人にパンを,自分が食べたいけどそれをあげる。これは誰にでもできることだけど,自分が,本当にお腹が空いて死にそうになっているときに,果たして,それができるか。傷つかずして人を助けることはできない,そういうことを言いたかった。

 

と言いつつも,書いた手前として少しばかり楽曲に関する私論を試みる。

そうだ 嬉しいんだ

生きる 歓び

たとえ 胸の傷が痛んでも

「生きること」そのものの,これほどまでに直接的な肯定。これを幼児向けの楽曲の冒頭に持って来るのが,やなせ氏の

幼児用だというので,グレードをうんと落とそうという風に考えるんですね。...僕はそう要求されたんですけど,違うんですよ。全く違うんですよ。非常に不思議なことにね,幼児というのはですね,お話の,この本当の部分がね,なぜかわかってしまうの。

という話をありありと映し出している。「胸の傷が痛む」は,日々の生活の中での苦しみや悩みに一般化しても良いだろう。すなわち,「たとえ,色々辛く苦しいことがあっても,生きる,生きている歓びというのは,とてつもない奇跡であり,嬉しいことなのだ」というやなせ自身の人生の中での気づきを歌い出したのかもしれない。

何のために生まれて 何をして生きるのか

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱い心 燃える

だから君はいくんだ 微笑んで

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

わからないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を こぼさないで涙

だから君は 飛ぶんだ どこまでも

「何のために生まれて,何をして生きるのか」・「何が君の幸せ,何をして喜ぶ」

人生の究極的な問いは「私が何のために生まれたのか。私が何をして生きるのか。」と「私にとって,何が幸せなのか。何をして喜ぶことができるのか。」であることを,短く鮮やかに歌い上げる。それがわかることこそ,「生きる意味」であり「幸福」であるのではないかとすら訴えかけている。

一方で,やなせたかし氏は冷淡ではなかった。各々の後半部には,しっかり読むとそれぞれの問いを考える氏なりのヒントが提示されている。

まず,「生きる意味」に対しては,「今を生きる」ことが大切なのだと。「今,ここに存在している」という実存を肯定し,今まさにこの時を「生きる」必要があると。懸命に生きる中で,色々なことに対して熱い心が燃え,結果的に「何をして生きるのか」という将来が見えてくるのではないか,あるいは,「何のために生まれてきたのか」という過去が見えてくるのではないか。そう主張する。「今の自分を懸命に生きよ。さすれば未来の戸は開かれん。」というのが彼からのメッセージなのだろう。

次に,「幸せ」に対しては,夢を忘れるな,涙をこぼすなと。「夢を忘れるな」というのは先の「好奇心が夢を必ず掴む」という,ポケモンドラえもんに見られた哲学に通底する思想である。後半の「涙をこぼすな」が,一見すると,うまくいかないことはしばしばあるが生きよう,と,励ましの言葉をかけた前2つの楽曲と異なる。しかし,彼も「人生の中に辛さが存在する」ことは肯定しているだろう。それは彼の戦争体験がそうさせざるを得ないと考える。辛さは存在するが,涙は流してはならない。これを繋ぐのは「忍耐」「辛い状況をじっと耐え抜く」ことを訴えていると考えると納得がいく。つまり,「人生には辛い状況が,しばしば存在する。しかし,そこで涙を流して諦めるのではなく,じっと耐え忍び,夢を諦めるな。」と解釈してはどうだろう。さすれば,苦痛への忍耐と夢の追求を両立させた中で,「自分が何が幸せなのか」「自分が何をしたら喜べるのか」がわかるのではないか,と言いたいのではないだろうか。

 

アニメ世界から滲み出る人間の本性

ドラえもんアンパンマンは,心が幼い「子ども」がみるもの,大の「大人」はそんなものはさっさと卒業して月9だとか大河ドラマをみるべきだ,そういった固定観念同調圧力が吹き荒れている。しかし,一度立ち止まってドラえもんポケモンを見てみよう。単純明快な話の中に,明瞭なメッセージが組み込まれている。しかも,そのメッセージは決して「子ども」だけに向けたものではないはずだ。さらに興味深いのは,子ども向けとして作られている楽曲やアニメなので,言葉が非常に単純で,小難しいことを言わずに哲学的な問いやその指針を示しているところにある。

翻って現実を見ると,確かにそんなに単純ではないことがわかる。人間関係の中に悩みは尽きず,そこを描くのが写実的であるという意見は最もだし,私も子供向けアニメが理想化された部分は大いにあると思う。しかし,抽象芸術に与した画家*12が現実世界から本質的なエッセンスを抜き出し描いたように,藤子・F・不二雄やなせたかしも,「人間的な生き方」の本質を抽出して物語世界に乗せたのではないのだろうか。それが,ドラえもんの世界観であり,アンパンマンの世界観なのである。

数年前か,ふとしたきっかけで麻生太郎サブカルに関する国会答弁をYouTubeか何かで拝聴し,痛く感動したのを思い出す*13。曰く,「ポケモンは,言葉が通じなくともコミュニケーションができる文化を植えつけた。ドラえもん鉄腕アトムは,ロボットが人間が困った時に助けてくれる概念を植えつけた。ワンピースは,困った奴はみんな助けるという哲学がある。」と。

アニメの殿堂と呼ばれた国立メディア芸術センターは,麻生内閣の退陣と旧民主党政権の事業仕分けにより「要らない」とされ,夢物語に終わった。しかし,日本のアニメやマンガの文化は,純文学に勝るとも劣らない哲学と思想を持ち,さらにそれを伝える媒体としての有効性を持っている。果たして,これらの文化を伝える施設は「税金の無駄」なのであろうか。私はおよそ疑問を持たざるを得ない。

アニメの世界は,確かにかなり理想化されたものである。しかしそこに描かれた理想郷には,私たち大人が,日々の生活に忙殺され見失いがちな「人間本来の生き方やあり方」を見いだすことができるのではないだろうか。 

*1:夢をかなえてドラえもん - YouTube

*2:新指導要領の「知識活用」の本質の一つは,自分自身の価値観の中に知識や学問を落とし込んでいく作業にあると思っているので,その文脈で「自分だけの世界地図」を作れる試みができると面白いかもしれない。

*3:流石に言い過ぎかもしれないが,目をキラキラさせて日々を送る大人は,私の身近には,研究者の一部くらいしか見出せない...。

*4:ちなみにこれを書いている間,ドラえもんのこの歌を始終リピートしているので,書いている途中で耳を傾けると結構新しい解釈が思いつくのである。

*5:めざせポケモンマスター - YouTube

*6:ダイヤモンド・パールの育て屋があるズイタウンは,比較的長距離を上下キーの操作だけで駆け抜けられる道路が存在する。その前を快走し,ひたすら個体値の高い個体を厳選した日々が私にもあったという。

*7:村田沙耶香の『殺人出産』で描かれた「何となく殺したい人」がこの「悪」に対応するのだろうか

*8:ただ,いじめや種々のハラスメントのように,例え相手に承認欲求や拠のない事情があったとしても,「悪」として断罪すべき事象も多数あるのはまた事実である。ただ,ここ最近の「ハラスメント」の議論は,一部において過度になり,「悪」を過剰に作り出しているのではないかと思う節は個人的にあるが...。

*9:「好奇心が枯れると人間が枯れる」という話を聞くと,ドラマ『女王の教室』の教師,阿久津真矢の言葉を思い出す。「どうして勉強をするんですか?」と問うた生徒に対して,曰く「(前略)自分たちの生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるというのですか。いくら勉強したって,生きている限りわからないことはいっぱいあります。世の中には,何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが,あんなものは嘘っぱちです。いい大学に入ろうがいい会社に入ろうが,幾つになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。好奇心を失った瞬間,人間は死んだも同然です。」と。(http://makotodiary.hatenablog.com/entry/2014/09/29/001826を参考)

*10:https://www.youtube.com/watch?v=ZIuhAQyneLc

*11:http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3423/1.html

*12:カンディンスキーの絵は,抽象表現の中でも大変面白い。「リズム」や「音楽」などそもそも視覚に知覚されないものを,いかにして「絵に描く」のか。彼の絵には,その実験的表現の形跡が多数見られる。特に,彼の『点と線から面へ』(https://www.amazon.co.jp/dp/4480097902)は,今の感性工学にもつながるような「斜め上に向かう線は暖かく感じる」「三角は黄色」のような感性を視覚的に表現する上での指標を(一部は今の感性工学の結果と一致しないが)示している,当時としては恐ろしく前衛的な論である。

*13:https://www.youtube.com/watch?v=QVgtxp16y30 :この演説が動画として残っているものがあまり見当たらず,やむなく引用した。動画主やその主張など動画の外の事項に関しては一切中立の立場を取る。

『叫び』と『絶望』を見る体験 ムンク展@東京都美術館

ムンクの内なる『叫び』を見る

結論から言うと,この展覧会は,凄まじく面白い。あと2日しかない中で宣伝するのが申し訳ないくらいに。今まで40くらいの展示を訪れた*1けれども,感性に訴えかけてくるエネルギー,それが他の回顧展・展覧会を圧倒している。これだけ行っていて「もう一回見に行かねば」と思ったのは,これが初めてだった*2

私自身の不慣れな言葉と不案内な文章で少しばかりレビューを書いてみようと思う。後半は,印象に残った作品を使って,僕の横に人がいたらこんな話をするだろうな*3,という部分を書いてみたので,「鑑賞者」の追体験をしたい方がいたら,ぜひ後半まで飛んでそこから読んでほしい。

東京都美術館で明後日20日まで開かれている,ノルウェーの画家,ムンクの回顧展。19世紀末の写実主義から印象派以降の「絵画の既成ルールが崩れていく過程」*4がとても好きで,西洋美術館の常設展も後半戦になるとテンションが上がる*5のだが,今回は同時代とはいえノルウェーの画家というのもあり,『叫び』と『接吻』の2作を,知っている程度で,ムンクの作品をじっくりと眺めるのは,初めてだった。

「元祖自撮り」とでもいうべき,自画像とセルフポートレイト(自分を写した写真)の展示に始まり,ムンクという画家の生い立ちや思想的なものを知ったあと,『叫び』『絶望』が並ぶ部屋に...。

人がかなり多かった*6ので,多くの人が順番待ち列に並んで「立ち止まって」いたが,恐らくたった一人であってもしばらく「立ち尽くして」いただろう。今回展示されていた『叫び』が1910年ごろの作品,『絶望』は1894年に書かれた作品とされているが,同じ構図での連作が量産されたのもあり,最初の『叫び』は『絶望』と同時期に描かれたらしい。何しろこの2つが並ぶと面白いくらいに想像を掻き立てられる。その奥,少し広い横長の空間には,連作『マドンナ』『接吻』などが並ぶ。このフロアは,流石に欲張りすぎではというくらいに感性に訴えかけるエネルギーに満ち溢れていた。

 

見えるものではなく,見たものを描く

私は見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。(ムンクのスケッチブックより)

衝撃だった。19世紀末の「印象派/写実主義」と「象徴主義」の目指すところは,正直この一言で全て尽きている。

19世紀末, 写真や映画の技術が発展する中で,絵画の意義が問い直される中,自然のありのままを伝える「写実主義」や,風景や自然光をできるだけ再現すべく独特の筆遣いや色遣いを編み出した「印象派」と呼ばれる人々がいた。一方で,「象徴主義」と呼ばれる,目に見えない内面世界や神話世界を擬人化・可視化する形で表現を試みた画家の一群がいる。ムンクは,ノルウェーにいたとはいえ後者の印象を受けた。

まず,考えてみて欲しいのだが,私たちは『叫び』や『絶望』をなぜ見ることができるのか。それは,ムンクの作品を,という意味ではなく,「叫び」や「絶望」そのものを私たちはこの手に取るように,あるいは目の前で目にすることができるのだろうか。百歩譲って,叫んでいる顔や絶望している顔を見ることはできる。しかし,ムンクはその外面の表情や行動にとどまらない内なる叫びや絶望を,どうにか絵の上に落として見せられないか,あるいは落とさねばならないと,描いているように思う。事実,表情や行動だけだったら『叫び』の周りは,鮮やかな夕焼けに包まれる。しかし,空は今にも襲いかかってきそうな勢いで歪んでいる。『叫び』『絶望』の感情の吐露が絵画全面に託したような,圧倒的なエネルギーを持って私に迫ってきた。

「見える」ものではなく「見た」もの,これは私たち自身の普段の生活の中にも現れる。例えば,気持ちが沈んでいるときは周りのちょっとした声が自分の悪い噂をしているのではないかと気になったり,逆に気持ちが明るくなっているときは大したこともないのに楽しくなったり,世の中も明るく見える。風景自体がどう「見える」かは何も変わっていないのに,人間の内面によって「見た」ものが変わる。その「見た」ものをそのまま「見える」ものにしたら...,と絵画を作ったのがムンクの描いた『叫び』,血のように赤く染まる空であったのだろう*7

この問いは,私自身が研究している「錯視・錯覚」*8にも通じる。錯視・錯覚は,人間が知覚・認識の過程で「見える」ものが,「実際」の画像や音声・触覚の提示と異なる現象の総称と言える。「実際」とは,長さが同じ(ミュラー・リヤー錯視)だとか,色が同じ(チェッカー錯視)だとかいう,物理量によって測られることが多い。その物理量(あるいは物理量の差など)と,心理物理的な実験によって得た「知覚量」が異なる時に,錯視が発生しているとする*9。これに対して,「見える=知覚」と「見た=心理」の違いの探求は,どうなされているのだろう。まだ私自身心理学方面に明るくないので,錯視の話も含めて,もう少しいろいろ眺めてから書けるときに書いてみようと思う。

さて,脱線した話を戻しつつ,以下では私自身が印象に残った作品をいくつか取り上げて,それを実際にどう眺めていたかを書き留めてみようと思う。

 

『叫び』・『絶望』(『不安』)

ムンク展を訪れた方はわかるだろうが,『叫び』の周りだけ異様な人だかりができていた。じっくり見るには,後ろから眺めるしかない。本当は『不安』『叫び』『絶望』が並ぶ壁面を比較しながら眺めたかったところだが,人だかりの奥に位置した『不安』をゆっくり見ることは叶わず,対して『叫び』『絶望』の2作は比較的ゆっくり眺められたので,以下,まずはその2点を取り上げてみる。画像はムンク展の公式より(https://munch2018.jp/gallery/)。

 

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 『絶望』,『叫び』ともほぼ同じ構図で描かれている。橋の上を舞台に,立ち去る2人の男を後景に,絶望する男と叫びに耳をふさぐ男が描かれる。まず,前景の人物とともに目に飛び込んでくるのは大きく歪み,原色に近い色で眩しいほどにオレンジや黄色で塗られた焼け空。墨絵をカラフルにしたような奇怪なうねり方をしている。

私たちは,夕焼けをみると美しさを覚え,綺麗だと呟き,あるいは理系の一部は,地球の大気層と太陽光の絶妙な加減によって引き起こされることに感動こそすれ,絶望・叫びを見て取る人は圧倒的少数派だろう。

しかし,彼の目が「見た」ものは違ったようだ。後景に映る2人の男は,量産された『叫び』の連作のいずれにも,格好は違うものの登場してくる。

私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然,空がちの赤色に変わった。私は立ち止まり,酷い疲れを感じて柵に寄りかかった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと街並みにかぶさるようであった。友人は歩き続けたが,私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え,戦っていた。そして私は,自然を貫く果てしない叫びを聴いた。(ムンクの日記より)

小説のワンシーンのような描き方だが,この不安に打ち震え,絶望にこだまし,叫び慄く自然に耳をふさぐムンクの姿がありありと映し出されている。友人が何も感じずに通り過ぎる風景に突如不安を覚え,絶望し,叫びを聞く。仮に私がムンクの横に立っていたとして,彼のいう「叫び」を聞くことができるのだろうか。恐らく否だろう。彼の内なる叫びが外面化され,「自然の叫び」として返ってくるものに耳をふさぐ。この他者に本質的に共有不可能な「叫び」をどうにか描き出そうとした本作は,そのおどろおどろしい赤く染まった歪む空と,それに呼応するように耳を塞ぎ立ち尽くす作者の姿が,ただただ鑑賞者を圧倒する。彼が体験した絶望や叫びを追体験する形で,作品の前に「立ち尽くす」のである。立ち尽くしたときに見えてくるのが,後景に映る友人とされた2人。彼らが何も感じずに通り過ぎていることが,むしろ「異常」に見えさえする。前景と後景の人物の対比が,非常に美しい。

その歪んだ空をじっと見ていると,『絶望』のほうは,血が滲んだような赤い色をしてはいるものの,背景は『叫び』ほど歪んでいないようにも見える。後景の二人の大きさに注目して,『絶望』→『叫び』のストーリーかな,と思いつつ,後景の2人は描かれ方が『叫び』によりかなりバリエーションがあるので一概には言えないが,自然の叫びを聞いた絶望かもしれないし,友人2人が気づかず私だけが襲われることへの絶望かもしれない...。想像を掻き立てる並べ方をしているのは,都美術館の妙ともいえよう。

夕焼けは,夜の始まりを象徴しているようにも見える。彼の「生と死」の文脈で言えば,「夜=死」の始まりを想起させ,その「死への絶望 / 死の恐怖を見せつけられたことへの叫び」と読むこともできそうである。彼の「死の哲学」は,最後に触れるが,この後ろが血に染まった夕焼けであったことは,単純な赤色以上の意味を持っているように思えてならない。

 

『接吻』・『目の中の目』

作品レビューの後半は,私自身が感動した2作品を勝手に紹介してみる。 一つは連作として様々な手法を用いて描き続けられ,その後の作品にも記号化されて引用される『接吻』,もう一つは『目の中の目』という作品である。『目の中の目』は,公式になかったのでムンクのウェブアーカイブから拾わせてもらった(https://arthive.com/edvardmunch/works/269047~Eye_to_eye)。

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『接吻』は,その表現に改めて心を動かされた。ドラマで「恋」ないし「愛」の表現として使い古された接吻の場面ではあるが,男女の顔がひとつながりのタッチで接続される,この表現を試みたムンクの感性にただ惚れ惚れする。

「恋愛とは何か」という問いも擦り切れるほど,小説がバカバカ売れ,歌手たちがてんやわんやに歌い続けている。「遠く離れても,つながりあっている」だとか「会えなくなった時にわかる寂しさ」だとか*10,確かに間違ってはいないかもしれないが,ムンクの妙は「接吻=行動」と「精神的な同体/境界の希薄化=内面」をこの1枚の絵で全て表現してしまったその恐ろしさにある。象徴主義的な絵画は,デフォルメが過ぎて「気持ち悪さ」を覚えることもあり,実際周りのお客さんの中には「この絵,なんか気持ち悪い」と素直におっしゃっていた方もいたが,この表現自体は中々編み出せるものではないように思う。この絵は,理性で感動しつつ,ある種の不気味さに感性も動かされたような絵である。
 

次いで『目の中の目』は,私自身が視覚系の研究をやっているというのもあり,興味深い作品だとしばらく眺めていたものである。人間の目自体がかなり綺麗な臓器であるのだが*11,この作品で注目したいのは,画家が描いた2人の目線である。右に立つ男性は,女性の目をじっと見つめている。対して,女性は男性の奥に広がる別の風景を見ているようにも見える。この前後でムンクの失恋話があり,その影響も入っているとは思うが,少し趣向を変えて,「男性は本当に女性を見ているのか」という問いを考えてみる。

それは,ムンクがつけた『目の中の目(Eye to eye)』に述べられたそのまま,「目の中の目」を見ているのではないか,という解釈である。人と目を合わせると,そこには相手の白目と黒目以外の色々な光景が映り込んでいる。以前,アイドルがそれで自宅の様子を特定されたという話が話題になったのを思い出すが,その人が見る周囲の風景が人の目の中に映り込むのである。その中には,自分自身,あるいは相手を見る自分自身の目も含まれる。『目の中の目』 とは,そんな相手の目の中に映った自分の姿,自分の眼差しを見て取ったのではないだろうか。

私は私を見ることができない。私は他者からの目によってしか見ることができない。特に私の「目」は,私自身1人では決して観察し得ない*12ものである。彼は,相手の女性の目を鏡のようにし,自分自身を観察していたのではないだろうか。それは同時に,他者である女性からの評価によって規定されるという「精神的な観察」も含まれているのだろう。「他者の視点」という,その後何十年かして哲学の世界でかなり議論された*13問いを,この時点で絵画表現として獲得している彼の眼力に恐れ入る。

 

ムンクの「死の哲学」を読み解いてみる

さて,ムンク展の最後は,次のような引用で締められた。

我々は誕生の時に,すでに死を体験している。

これから我々を待ち受けるのは,

人生の中で最も奇妙な体験,

すなわち死と呼ばれる真の誕生である。

パッと見た瞬間,「ん,何を言っているんだ?」となり,2回目に見たときはその言葉をもう一度噛み締めて帰りたいという心持ちも持って来た。以下,勝手に考えたことを書いてみる。実存主義の思想家は,私自身かなり理解が浅いので,間違っていることを書いているかもしれないので,批判的に読んでいただければ幸いである。

ムンクは,第二次大戦中の1944年に戦争のあおりを受けた形で病死している。この時代は,ヨーロッパが二度の大戦の中で大量の殺戮が行われ,不安と絶望が世界を取り巻き,「人間の生きる意味」が問い直され続けた時代と重なる。それと呼応するように,実存主義*14が台頭した時代でもある。「実存主義」とは,詳細はWikipediaやその他資料を参考にしていただきたいが,ざっくり切ると「集団や国家,学問などの普遍的な存在よりも,人間一人一人が今現に生きているという個別的な存在に価値を置く」とする考え方であり,当時国家や科学をはじめとした学問により「自分を見失いかけた」人々に希望の光として照らすような思想であったようにも思う。

実際,ニーチェ肖像画を展示してあったが,彼の著作や思想にムンク自身がかなり傾倒していたようである。おそらく,晩年のこの言葉は,ハイデガーの『存在と時間』にも影響を受けているように見える*15ハイデガーの「死」に関する考察は,人間にとって「生=生き方」は交換し得るものであっても,少なくとも「死」だけは,交換不可能で,貴族市民身分を問わずその人自身が引き受けなければならないものであり,そこに「人間」の可能性を見出した,という中々斬新な論であったように思う*16

ムンクも,生の絶望や不安を描き続けて来たが,老いて死を迎えるにあたり,そこに希望すら見出したのではないだろうか。

「我々は誕生の時に,すでに死を体験している」とは,生まれ落ち「生」を与えられたその瞬間,私たちはある種の「死」すなわち「生きることの絶望・不安」の体験が開始されている,という風に読めないだろうか?

さらに「これから我々を待ち受けるのは,死と呼ばれる真の誕生である」とは,「死」こそ「生の希望」でもあり,「死」の唯一性・代替不可能性を踏まえるならば「死」を迎えることで,私自身が初めて「他でもない自分自身を,苦しみ・絶望に打ちひしがれながらも生きてきた」という証を得られるという点で,「死して誕生する」ということができそうな気もする。

 

SEKAI NO OWARI 『Never Ending World』に見る死生観

このムンクの死生観に無意識を晒されつつ,偶々セカオワのサントラを回していて,ビビッと来て無限リピートで聴いている曲がある。Never Ending Worldという楽曲である*17。サビの一部を抜き出してみよう。

 「何か」が終わってしまったけれど,

それは同時に,「何か」が始まって,

「始まり」はいつでも怖いけれど,

だからこそ「僕ら」は,手をつなごう,

We are with you,

「何か」として,抽象化されているがゆえに,かなり色々な読み方を許されている楽曲なので,何度か聴いていると違う読み方もできるなあ,と考え,ここ数日この曲しかリピートしていない中毒症状に陥っているのはさておき笑

先ほどのムンクの死生観を踏まえるならば,この「何か」を「生」と捉えると,かなり符合するように思う。すなわち「生」の終わりは,すなわち新たな「生」の始まりでもあり,「その始まり」はいつも怖い,と。しかし,ムンクの誕生ほど「死」を意識している様子もなく,新たな生の始まりをポジティブに捉えている印象を持つ。

楽曲が作られたきっかけを調べていたら,やはり3.11の震災の話に当たった。Saoriがブログにも記載している(https://ameblo.jp/sekaowa/entry-11488188435.html)が,彼らの被災者支援の中で紡がれた楽曲のようである。先日のムンク展の帰りに「カタストロフと美術のちから」展を森美術館に見に行ったが,そこでも3.11は大きな出来事として取り上げられていた。「まごうことなき破壊の中でアーティストとして何ができるのか」を彼らも問い,その中で辿り着いた楽曲だと思うと,聞いている途中でふと涙が出そうになったのも頷ける。

彼らが描く死生観は「死の到来は,新たな生の始まり」とし,恐ろしく悲惨な出来事として「死」を突きつけられ,その中に「生」の意味を見出そうとした,という,ムンクと似て非なるもののように思う*18

もちろん,この楽曲は「学校生活」としての「生」という見方もできるだろうし,恋愛ソングの「1人の異性と付き合った人生」としての「生」とも見ることもできるだろうし,「生命の連鎖」として,親から子への継承のようなイメージも持ちうるだろう*19が,根本には「死と生」の軸が入っているのではないかと,今の所は解釈している。

セカオワって結構深い歌を歌っているな,というイメージがあったが,この歌は特にかなり引っかかるものがあったし,事実相当色々な点でよく練られているように思ったりする*20

 

おわりに

終わりは,同時に新たな始まりだという。この文章の終わりも,新たな誕生を心待ちにしているように思える。私自身がここまで紡いできたものを読者に解釈してもらうことも「誕生」であるかもしれないし,批判し修正してもらうことも「誕生」であるかもしれない。どんな作品も解釈され,批判されることで「始まり」を迎える。それは乗り越えるべきものなのかもしれない。あるいは殺すべきものなのかもしれない。しかし,「死こそ真の誕生」なのであり「終わりは始まり」なのであろう。

つらつらと脈絡なく思いついたことを書いてきたが,ムンクの絵から死生観に飛んで,セカオワの楽曲,ちょうどここ1週間で研究の合間に考えていたことが少しまとまったような気がする。

 

「始まり」はいつでも怖いけれど,だからこそ僕らは手をつなごう。

 

素敵な楽曲に包まれながら,しばし論文を読みつつ,研究と自身の考察を自分のペースで進めてみようと思う。

 

*1:メモ帳に行った美術館が記録されているが,学部3年の時にはまりだして,以後,小さい展覧会も含め40程度の展覧会に足を運んでいるようだ。

*2:「見に行ってもいいかな」と思うのは,先日の横浜美術館でのモネ展(https://monet2018yokohama.jp/)とか,だいぶ前のpanasonic汐留のカンディンスキー展(https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/171017/)あたりに思ったが,義務感すら覚えたのはこれが初めて...。

*3:一部実際にした覚えがあるが,いかんせん自分が何を話したかをすぐに忘れるので,今また思い出しながら書いている。

*4:三浦篤『まなざしのレッスン』か,高階秀爾『20世紀美術』あたりで聞いたフレーズ

*5:西洋美術館は,概ねルネサンス以降の西洋美術絵画と彫刻を展示している。ロの字型の回廊を回り終えてそこから横道に出るあたりから徐々に「絵画」が崩れていく様子を見て取ることができる。ルネサンス的な「均衡/秩序」とバロック的な「装飾/デフォルメ」の間の振動が,イタリア・フランスと場所を変えながら生じたことを回廊を回る形で表現して,そこを振り切る形で絵画のルールが崩れて行ったのを「横道」で表現しているように思え,展示空間として見せ方が上手いと勝手に感心していたり笑
ミレーの絵を過ぎて,セザンヌやマネ,ドガを横目に,通称?「モネルーム」に入っていくあたりは何度行っても感動する。

*6:1回目が土曜日の午後,2回目が金曜夜に行ったのだが,どちらも結構人が入っていた。金曜の夜は,人が少なく結構狙い目だと思っていたが,ムンクの『叫び』は,確かに名前が圧倒的に有名だからとっつきやすいのかもしれない。義務教育の成果なのだろうか笑

*7:認知科学では,「見える=表情」が「見た=気持ち」を規定する「表情フィードバック仮説」(表情フィードバック仮説 - Wikipedia )も提唱され,現在も議論がなされつつ研究されている。例えば,うつ病の患者にこれを応用して治療しようという研究など面白い(http://www.cyber.t.u-tokyo.ac.jp/ja/projects/)の『扇情的な鏡』

*8:錯視 - Wikipedia

*9:ただ個人差が大きい場合も多く,実験デザインが中々難しい...泣

*10:宇多田ヒカルはじめ,こういう系統を歌う歌手も好きではあるのだけれど,流石にいつまで同じテーマをあまり大した違いもなく歌い続けるんだ,というくらい似た表現が出てくるので,そろそろ誰か『日本の90年代以降のポップスにおける恋愛の描かれ方』というレビュー論文を書いていただきたい。ありそうな予感もする。

*11:「いや,それはないだろ」と思った方は,鏡の中でぜひ自分の眼球をじっと見てみて欲しい。映り込む景色も含め中々綺麗だと個人的に思う。「ひと目惚れ」という言葉があるが,あれは「一目見て」ではなく「人の目を見て」惚れる「人目惚れ」ではないかとすら感じるのだが,同意されなそうな予感しかしない...。

*12:強いて言えば,瞼を閉じた時の瞼を観察することができるくらいか

*13:私自身十全に把握していないが,レヴィナスらの「他者」の議論のほか,ケアの文脈や教育の文脈で「他者」を意識せざるを得ず,その中で哲学を試みる「臨床哲学」「教育哲学」などがあると理解している。

*14:実存主義 - Wikipedia

*15:いつか絶対に読み切ってみようと思いつつ,ハイデガー思想の解説ですらまだ読みきれていないのが悲しい...。

*16:ぜひニーチェハイデガーのラインに詳しい方は補足をください...

*17:Fukase作曲の歌詞(http://j-lyric.net/artist/a055790/l025eec.html)とSaoriのピアノの伴奏がとても素敵なので,追って気が向いたらこの曲も題材にとって色々考えてみようと思う。

*18:ある種,元々の「実存主義」に近い,生きることそのものに価値を見出す,という発想に戻ることで,ハイデガームンクの「死」を乗り越えた形になっているようにも見える。

*19:あまりに悲惨な状況で,当初直接描くことが不可能であったので,かなり抽象化した形,あるいは物語に乗せて,など様々な形で記録と解釈が試みられたようである。

*20:サカナクションの楽曲もその系統で好きなので,ぜひ両グループのメンバーにはエッセイを出していただきたい笑