晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

日々を,感じ考えるままに書き留めてみる。一部noteに移動しています

年末年始の小説寸評 『コンビニ人間』・『人魚の眠る家』

年の瀬の品定め

2018年も終わりに差し掛かったある日,本屋に立ち寄った。本を手にとり,裏表紙にあるあらすじを読み,気になったら中をパラパラとめくってみる。暇なときは,論文か結構マニアックな評論をネットの森から発掘して,時には評論をポチって読むのが日常だったので,「売れ筋Best20」などのPOPを見ながら,世の中の人たちはこんな品定めをしていくことが,かなり久々だった。

本屋で色々眺めるのは,全く予想していなかった出会いがある。ネットサーフィンだと基本的に「関連項目」や「オススメ」として連想ゲームのように飛んでいくので,アナログに,全く新しい本との「遭遇可能性」*1を求めて歩き回るのも,私にとってはさりげないエンタメである。

衝動買いをする際の「なぜその商品を選んだか」については,勝手に補完されていくことが多い。実際に読んでみて面白い作品との出会いが果たせたので,その理由はいくらでも考えられるわけだが,選んだ当初は「なんとなく面白そうだから」「なんか映画化もされているらしいし,ちょっとは流行を追いかけるか」といった軽いものだったし,もしかしたら「そこに本があったから」というものだったかもしれない。ひとまず,

村田沙耶香コンビニ人間*2

東野圭吾人魚の眠る家*3

・志駕晃『スマホを落としただけなのに*4

の3冊を衝動買いした。

普段,難しげな評論を読むときは1ページ1ページ噛みしめるように読まないと,理解が追いつかないのだが,こういう小説はドラマや映画を見るようにサラっと読めるので,ページがサクサク進む。結局年末買った3冊が,年末年始の空き時間で読み終わってしまったので,その感想などを書き留めておこうと思う。小学校の読書感想文では「作文用紙の枚数をいかに稼ぐか」の勝負を同級生の子とひたすらやり続けていたのを思い出すが,別に争う相手もいないので,筆が続くだけざっと書いてみることにする。ただ,『スマホを落としただけなのに』だけは個人的に少し別系統の小説であるように感じた*5ので,上の2つについて寸評を書いてみる。

以下,本のネタバレを多少書いてしまう(決定的なネタバレは流石に避けますが)と思うので,もし気にする方は,ぜひ本を手にとっていただいてから読んでほしいです笑

 

「普通」への圧力と「異常」の排除 〜村田沙耶香コンビニ人間』〜

いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。(Amazonの「内容」より)

2016年に芥川賞を受賞した本作は,筆者自身もバイトをしていたというコンビニを主たる舞台にした作品である。レジ打ち,商品陳列など私たちもよくみる光景がさすが実際にバイトをしていただけあり,かなり詳細な部分までリアリティ溢れる筆致で描かれているが,その本領は「普通とは何か?」を軽いタッチで作品に散りばめられているところに発揮されている。

日常生活では,「常識で考えたら,ありえないでしょ」とか「普通は,こうするもの」など「常識」「普通」の名の下に,「異常」を排除するやりとりがしばしば展開される。果たして,彼らが使う「常識」や「普通」といった言葉は一体何を指しているのか?

この作品の主人公,古倉は「マスターすれば普通であると認められるマニュアル」が存在する仕事としてコンビニの仕事を肯定的に捉え,マニュアル通りに仕事をするだけで「普通の人間」として認められることに嬉しさを覚えている。

確かに,多様な生き方を認める社会だというわりに,未だに「普通への圧力」はあまりにも大きい。「博士に行ったら人生終わりだ。さっさと就職しろ」とか「なぜいつまで彼女がいないままなのだ,お前は欠陥品ではないのか」などといった訳の分からない「結婚至上主義」「学歴至上主義」「安定至上主義」と行った様々な圧力に常にさらされている。これら全ての「普通」を完璧に満たしている人は,一体どのくらいいるのだろうか?

そもそもこの「普通」の概念はかなり相対的なものだといえる。小説内に「コンビニ店員」としての普通と「正社員」としての普通に乖離があることが仄めかされているように,「普通」はその人が置かれる立場によって違う。「普通への圧力」が「多数派への同調圧力」である場合,Aという基準での多数派,Bという基準での多数派...と重ねていくと,Aの多数派かつBの多数派かつCの多数派...を満たす人間は,恐らく全体の中で多数派にはならない。しかし,多数派でないはずなのに,「普通」であることを常に望み,その「普通」を他者に押し付ける風潮がある。

「普通」を望むのは「異常」を排除することにより,自身が「多数派=普通」であることを確認する儀式なのだろうか。そもそも「普通」であることは,「非異常=ab-abnormal」としてしか輪郭をはっきりさせることができないから,異常を排除する営みが続き,そこに快感すら覚える人間が多いのではないか。ちょうど木村敏『偶然性の精神病理』などの臨床哲学を並行して読んでいるので,「異常」とは何か,という問いを,それら文献も通じて考えることとしたい。 

いずれにしろ,この小説を通じて「普通」であることの難しさ,そもそも「普通」であるべきなのか,最近考えていることを斜め45度から叩きつけられ,小説特有の「滲み出る哲学」に感動を覚えた次第である。

 

「生」と「死」の境界はどこにあるのか? 〜東野圭吾人魚の眠る家』〜

娘の小学校受験が終わったら離婚する。そう約束した仮面夫婦の二人。彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前だった。娘がプールで溺れた―。病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか―。(Amazonの「内容」より)

東野圭吾は,ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズなどで以前からお世話になっているが,本作はミステリーよりも,かなり哲学色が強い作品だろう。一言でいえば「生と死の境界は何で決められるのか」という大きな問いを投げかけている。

少しだけ序盤のネタバレをするならば,引用した「残酷な現実」とは「恐らく脳死であろう」という宣告である。「恐らく」というのは,現在の日本では「臓器移植の意思を示した場合に脳死判定を行う」ため,「脳死である」と断言することはできないことを含んだ表現である。

多くの人が持つ運転免許証の裏側には,「臓器提供に関する意思表示」の欄が存在する。そこには,次のように書かれている*6

以下の部分を使用して臓器提供に関する意思を表示することができます(記入は自由です。)。記入する場合は,1から3までのいずれかの番号を○で囲んでください。

1. 私は,脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも,移植のために臓器を提供します。

2. 私は,心臓が停止した死後に限り,移植のために臓器を提供します。

3. 私は臓器を提供しません。

(後略,運転免許証裏面の「臓器提供に関する意思表示」より)

この1と2を見比べるとわかるが,医学的にも「脳死」と「心臓死」の2つの基準が混在している。脳死とは「脳全ての機能が不可逆的に回復不能な状態」とされており,大脳の機能が停止し,意識がない状態であるいわゆる「植物状態」とは区別されるが,日本では,「臓器移植の場合を除いて,脳死を個体の死とは認めない」という方針を採っているという。つまり,臓器移植の意思が示された場合にかぎり「死」が宣告されるという,かなり微妙な立ち位置にいるらしい*7

以前,上級救命講習を受けた際に「心臓マッサージは,一番ダメージを受けやすい脳に酸素を送り続けるために行うものであるから,脳に血液を送り届けるアシストをしていることを理解してほしい」と救急隊の方からお話を伺ったことを思い出す。心肺蘇生は,この2つの意味での死の瀬戸際から救い出しているのだろう。

近年取り壊される文化財や建物のアーカイブVirtual RealityVR)の技術によって記録・再生することが実現している中で,「人間のアーカイブ」は何を取れば良いかという議論を情報系界隈の複数の先生方から伺った覚えがある。もちろん人間の寿命は有限なので,そこは避けられないが,周囲の人々が「その人間が存在する」と感じるためには何が必要か,という議論である。この議論は,裏を返せば「何が人間の存在を決めるか」という問いにもなり,「生と死の境界」を問うていることになる。

本作のラストでは,ここではネタバレを避けるがその心臓死でも脳死でもない「死」の形を示していたように思う。頑なに「恐らく脳死」と宣告された娘の母親がその「死」の時間にこだわったのも,主観的な死の一つのあり方が描かれているのだろう。

総じてかなり重いテーマを扱っていたが,東野圭吾ミステリーのグイグイ惹き付ける文章に導かれて結構スラスラ読め,深く考えさせられる一作であった。

 

小説からにじみ出る「生きた哲学」とその表現の可能性

これら二つの小説が問うている問いは,哲学の問題としてもしばしば取り上げられてきたものだろう。だが,哲学書と小説の書き振りは正反対である。哲学書が,理路整然と論理的に述べるのに対し,小説は活劇を通して哲学が「にじみ出る」ように描かれる。同じテーマを扱うのにこれだけ表現方法が違うのも中々面白い。

私自身は科学や哲学といった学問を小中学校以来積み上げてきて,またそれをある種大学に入るまで神聖化していた節があるので,小説の非言語的ににじみ出る哲学の表現技法にここ最近,興味を惹かれている。哲学や科学の論理は論理的でありすぎるが故に無味乾燥としてしまい,学問に閉じたものになりがちな一方で,小説は,生き生きと登場人物が動く中でメッセージが滲み出てくる手法をとり「生きた哲学」として日常に溶け込ませることができているように思う。

学問を日常に溶け込ませる,あるいは日常から引き上げた形で学問を構成していく手法をこの数年,科学コミュニケーションの文脈から探してきたが,こういった「生きた哲学」としての小説の表現技法を理解することは,何がしかその手法を探る糸口になるかもしれない。

*1:『ひとり空間の都市論』https://www.amazon.co.jp/dp/4480071075の序論,孤独のグルメhttps://www.tv-tokyo.co.jp/kodokunogurume/社会学の観点から論じていた中に,「遭遇可能性」として語られ,グルメ検索アプリなどで口コミを元に事前に行く場所が決まる「検索可能性」と比較していた。

*2:https://www.amazon.co.jp/dp/4163906185/

*3:https://www.amazon.co.jp/dp/4344028503

*4:https://www.amazon.co.jp/dp/4800270669

*5:題名の通り,スマホを落としたところから始まるサスペンスで,非日常のクローズドサークルで展開されるオーソドックスなミステリーではなく,日常のさりげない一幕からミステリーに引き込んでいくという切り口は面白かったが,書評を少し書くだけで結構なネタバレになりそうな予感がする...

*6:私は医学の専門家ではないので,以下,誤っている部分があったらぜひコメントをいただきたいです。

*7:https://www.jotnw.or.jp/studying/kids/basic/brain_heart.html