晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

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『叫び』と『絶望』を見る体験 ムンク展@東京都美術館

ムンクの内なる『叫び』を見る

結論から言うと,この展覧会は,凄まじく面白い。あと2日しかない中で宣伝するのが申し訳ないくらいに。今まで40くらいの展示を訪れた*1けれども,感性に訴えかけてくるエネルギー,それが他の回顧展・展覧会を圧倒している。これだけ行っていて「もう一回見に行かねば」と思ったのは,これが初めてだった*2

私自身の不慣れな言葉と不案内な文章で少しばかりレビューを書いてみようと思う。後半は,印象に残った作品を使って,僕の横に人がいたらこんな話をするだろうな*3,という部分を書いてみたので,「鑑賞者」の追体験をしたい方がいたら,ぜひ後半まで飛んでそこから読んでほしい。

東京都美術館で明後日20日まで開かれている,ノルウェーの画家,ムンクの回顧展。19世紀末の写実主義から印象派以降の「絵画の既成ルールが崩れていく過程」*4がとても好きで,西洋美術館の常設展も後半戦になるとテンションが上がる*5のだが,今回は同時代とはいえノルウェーの画家というのもあり,『叫び』と『接吻』の2作を,知っている程度で,ムンクの作品をじっくりと眺めるのは,初めてだった。

「元祖自撮り」とでもいうべき,自画像とセルフポートレイト(自分を写した写真)の展示に始まり,ムンクという画家の生い立ちや思想的なものを知ったあと,『叫び』『絶望』が並ぶ部屋に...。

人がかなり多かった*6ので,多くの人が順番待ち列に並んで「立ち止まって」いたが,恐らくたった一人であってもしばらく「立ち尽くして」いただろう。今回展示されていた『叫び』が1910年ごろの作品,『絶望』は1894年に書かれた作品とされているが,同じ構図での連作が量産されたのもあり,最初の『叫び』は『絶望』と同時期に描かれたらしい。何しろこの2つが並ぶと面白いくらいに想像を掻き立てられる。その奥,少し広い横長の空間には,連作『マドンナ』『接吻』などが並ぶ。このフロアは,流石に欲張りすぎではというくらいに感性に訴えかけるエネルギーに満ち溢れていた。

 

見えるものではなく,見たものを描く

私は見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。(ムンクのスケッチブックより)

衝撃だった。19世紀末の「印象派/写実主義」と「象徴主義」の目指すところは,正直この一言で全て尽きている。

19世紀末, 写真や映画の技術が発展する中で,絵画の意義が問い直される中,自然のありのままを伝える「写実主義」や,風景や自然光をできるだけ再現すべく独特の筆遣いや色遣いを編み出した「印象派」と呼ばれる人々がいた。一方で,「象徴主義」と呼ばれる,目に見えない内面世界や神話世界を擬人化・可視化する形で表現を試みた画家の一群がいる。ムンクは,ノルウェーにいたとはいえ後者の印象を受けた。

まず,考えてみて欲しいのだが,私たちは『叫び』や『絶望』をなぜ見ることができるのか。それは,ムンクの作品を,という意味ではなく,「叫び」や「絶望」そのものを私たちはこの手に取るように,あるいは目の前で目にすることができるのだろうか。百歩譲って,叫んでいる顔や絶望している顔を見ることはできる。しかし,ムンクはその外面の表情や行動にとどまらない内なる叫びや絶望を,どうにか絵の上に落として見せられないか,あるいは落とさねばならないと,描いているように思う。事実,表情や行動だけだったら『叫び』の周りは,鮮やかな夕焼けに包まれる。しかし,空は今にも襲いかかってきそうな勢いで歪んでいる。『叫び』『絶望』の感情の吐露が絵画全面に託したような,圧倒的なエネルギーを持って私に迫ってきた。

「見える」ものではなく「見た」もの,これは私たち自身の普段の生活の中にも現れる。例えば,気持ちが沈んでいるときは周りのちょっとした声が自分の悪い噂をしているのではないかと気になったり,逆に気持ちが明るくなっているときは大したこともないのに楽しくなったり,世の中も明るく見える。風景自体がどう「見える」かは何も変わっていないのに,人間の内面によって「見た」ものが変わる。その「見た」ものをそのまま「見える」ものにしたら...,と絵画を作ったのがムンクの描いた『叫び』,血のように赤く染まる空であったのだろう*7

この問いは,私自身が研究している「錯視・錯覚」*8にも通じる。錯視・錯覚は,人間が知覚・認識の過程で「見える」ものが,「実際」の画像や音声・触覚の提示と異なる現象の総称と言える。「実際」とは,長さが同じ(ミュラー・リヤー錯視)だとか,色が同じ(チェッカー錯視)だとかいう,物理量によって測られることが多い。その物理量(あるいは物理量の差など)と,心理物理的な実験によって得た「知覚量」が異なる時に,錯視が発生しているとする*9。これに対して,「見える=知覚」と「見た=心理」の違いの探求は,どうなされているのだろう。まだ私自身心理学方面に明るくないので,錯視の話も含めて,もう少しいろいろ眺めてから書けるときに書いてみようと思う。

さて,脱線した話を戻しつつ,以下では私自身が印象に残った作品をいくつか取り上げて,それを実際にどう眺めていたかを書き留めてみようと思う。

 

『叫び』・『絶望』(『不安』)

ムンク展を訪れた方はわかるだろうが,『叫び』の周りだけ異様な人だかりができていた。じっくり見るには,後ろから眺めるしかない。本当は『不安』『叫び』『絶望』が並ぶ壁面を比較しながら眺めたかったところだが,人だかりの奥に位置した『不安』をゆっくり見ることは叶わず,対して『叫び』『絶望』の2作は比較的ゆっくり眺められたので,以下,まずはその2点を取り上げてみる。画像はムンク展の公式より(https://munch2018.jp/gallery/)。

 

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 『絶望』,『叫び』ともほぼ同じ構図で描かれている。橋の上を舞台に,立ち去る2人の男を後景に,絶望する男と叫びに耳をふさぐ男が描かれる。まず,前景の人物とともに目に飛び込んでくるのは大きく歪み,原色に近い色で眩しいほどにオレンジや黄色で塗られた焼け空。墨絵をカラフルにしたような奇怪なうねり方をしている。

私たちは,夕焼けをみると美しさを覚え,綺麗だと呟き,あるいは理系の一部は,地球の大気層と太陽光の絶妙な加減によって引き起こされることに感動こそすれ,絶望・叫びを見て取る人は圧倒的少数派だろう。

しかし,彼の目が「見た」ものは違ったようだ。後景に映る2人の男は,量産された『叫び』の連作のいずれにも,格好は違うものの登場してくる。

私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然,空がちの赤色に変わった。私は立ち止まり,酷い疲れを感じて柵に寄りかかった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと街並みにかぶさるようであった。友人は歩き続けたが,私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え,戦っていた。そして私は,自然を貫く果てしない叫びを聴いた。(ムンクの日記より)

小説のワンシーンのような描き方だが,この不安に打ち震え,絶望にこだまし,叫び慄く自然に耳をふさぐムンクの姿がありありと映し出されている。友人が何も感じずに通り過ぎる風景に突如不安を覚え,絶望し,叫びを聞く。仮に私がムンクの横に立っていたとして,彼のいう「叫び」を聞くことができるのだろうか。恐らく否だろう。彼の内なる叫びが外面化され,「自然の叫び」として返ってくるものに耳をふさぐ。この他者に本質的に共有不可能な「叫び」をどうにか描き出そうとした本作は,そのおどろおどろしい赤く染まった歪む空と,それに呼応するように耳を塞ぎ立ち尽くす作者の姿が,ただただ鑑賞者を圧倒する。彼が体験した絶望や叫びを追体験する形で,作品の前に「立ち尽くす」のである。立ち尽くしたときに見えてくるのが,後景に映る友人とされた2人。彼らが何も感じずに通り過ぎていることが,むしろ「異常」に見えさえする。前景と後景の人物の対比が,非常に美しい。

その歪んだ空をじっと見ていると,『絶望』のほうは,血が滲んだような赤い色をしてはいるものの,背景は『叫び』ほど歪んでいないようにも見える。後景の二人の大きさに注目して,『絶望』→『叫び』のストーリーかな,と思いつつ,後景の2人は描かれ方が『叫び』によりかなりバリエーションがあるので一概には言えないが,自然の叫びを聞いた絶望かもしれないし,友人2人が気づかず私だけが襲われることへの絶望かもしれない...。想像を掻き立てる並べ方をしているのは,都美術館の妙ともいえよう。

夕焼けは,夜の始まりを象徴しているようにも見える。彼の「生と死」の文脈で言えば,「夜=死」の始まりを想起させ,その「死への絶望 / 死の恐怖を見せつけられたことへの叫び」と読むこともできそうである。彼の「死の哲学」は,最後に触れるが,この後ろが血に染まった夕焼けであったことは,単純な赤色以上の意味を持っているように思えてならない。

 

『接吻』・『目の中の目』

作品レビューの後半は,私自身が感動した2作品を勝手に紹介してみる。 一つは連作として様々な手法を用いて描き続けられ,その後の作品にも記号化されて引用される『接吻』,もう一つは『目の中の目』という作品である。『目の中の目』は,公式になかったのでムンクのウェブアーカイブから拾わせてもらった(https://arthive.com/edvardmunch/works/269047~Eye_to_eye)。

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『接吻』は,その表現に改めて心を動かされた。ドラマで「恋」ないし「愛」の表現として使い古された接吻の場面ではあるが,男女の顔がひとつながりのタッチで接続される,この表現を試みたムンクの感性にただ惚れ惚れする。

「恋愛とは何か」という問いも擦り切れるほど,小説がバカバカ売れ,歌手たちがてんやわんやに歌い続けている。「遠く離れても,つながりあっている」だとか「会えなくなった時にわかる寂しさ」だとか*10,確かに間違ってはいないかもしれないが,ムンクの妙は「接吻=行動」と「精神的な同体/境界の希薄化=内面」をこの1枚の絵で全て表現してしまったその恐ろしさにある。象徴主義的な絵画は,デフォルメが過ぎて「気持ち悪さ」を覚えることもあり,実際周りのお客さんの中には「この絵,なんか気持ち悪い」と素直におっしゃっていた方もいたが,この表現自体は中々編み出せるものではないように思う。この絵は,理性で感動しつつ,ある種の不気味さに感性も動かされたような絵である。
 

次いで『目の中の目』は,私自身が視覚系の研究をやっているというのもあり,興味深い作品だとしばらく眺めていたものである。人間の目自体がかなり綺麗な臓器であるのだが*11,この作品で注目したいのは,画家が描いた2人の目線である。右に立つ男性は,女性の目をじっと見つめている。対して,女性は男性の奥に広がる別の風景を見ているようにも見える。この前後でムンクの失恋話があり,その影響も入っているとは思うが,少し趣向を変えて,「男性は本当に女性を見ているのか」という問いを考えてみる。

それは,ムンクがつけた『目の中の目(Eye to eye)』に述べられたそのまま,「目の中の目」を見ているのではないか,という解釈である。人と目を合わせると,そこには相手の白目と黒目以外の色々な光景が映り込んでいる。以前,アイドルがそれで自宅の様子を特定されたという話が話題になったのを思い出すが,その人が見る周囲の風景が人の目の中に映り込むのである。その中には,自分自身,あるいは相手を見る自分自身の目も含まれる。『目の中の目』 とは,そんな相手の目の中に映った自分の姿,自分の眼差しを見て取ったのではないだろうか。

私は私を見ることができない。私は他者からの目によってしか見ることができない。特に私の「目」は,私自身1人では決して観察し得ない*12ものである。彼は,相手の女性の目を鏡のようにし,自分自身を観察していたのではないだろうか。それは同時に,他者である女性からの評価によって規定されるという「精神的な観察」も含まれているのだろう。「他者の視点」という,その後何十年かして哲学の世界でかなり議論された*13問いを,この時点で絵画表現として獲得している彼の眼力に恐れ入る。

 

ムンクの「死の哲学」を読み解いてみる

さて,ムンク展の最後は,次のような引用で締められた。

我々は誕生の時に,すでに死を体験している。

これから我々を待ち受けるのは,

人生の中で最も奇妙な体験,

すなわち死と呼ばれる真の誕生である。

パッと見た瞬間,「ん,何を言っているんだ?」となり,2回目に見たときはその言葉をもう一度噛み締めて帰りたいという心持ちも持って来た。以下,勝手に考えたことを書いてみる。実存主義の思想家は,私自身かなり理解が浅いので,間違っていることを書いているかもしれないので,批判的に読んでいただければ幸いである。

ムンクは,第二次大戦中の1944年に戦争のあおりを受けた形で病死している。この時代は,ヨーロッパが二度の大戦の中で大量の殺戮が行われ,不安と絶望が世界を取り巻き,「人間の生きる意味」が問い直され続けた時代と重なる。それと呼応するように,実存主義*14が台頭した時代でもある。「実存主義」とは,詳細はWikipediaやその他資料を参考にしていただきたいが,ざっくり切ると「集団や国家,学問などの普遍的な存在よりも,人間一人一人が今現に生きているという個別的な存在に価値を置く」とする考え方であり,当時国家や科学をはじめとした学問により「自分を見失いかけた」人々に希望の光として照らすような思想であったようにも思う。

実際,ニーチェ肖像画を展示してあったが,彼の著作や思想にムンク自身がかなり傾倒していたようである。おそらく,晩年のこの言葉は,ハイデガーの『存在と時間』にも影響を受けているように見える*15ハイデガーの「死」に関する考察は,人間にとって「生=生き方」は交換し得るものであっても,少なくとも「死」だけは,交換不可能で,貴族市民身分を問わずその人自身が引き受けなければならないものであり,そこに「人間」の可能性を見出した,という中々斬新な論であったように思う*16

ムンクも,生の絶望や不安を描き続けて来たが,老いて死を迎えるにあたり,そこに希望すら見出したのではないだろうか。

「我々は誕生の時に,すでに死を体験している」とは,生まれ落ち「生」を与えられたその瞬間,私たちはある種の「死」すなわち「生きることの絶望・不安」の体験が開始されている,という風に読めないだろうか?

さらに「これから我々を待ち受けるのは,死と呼ばれる真の誕生である」とは,「死」こそ「生の希望」でもあり,「死」の唯一性・代替不可能性を踏まえるならば「死」を迎えることで,私自身が初めて「他でもない自分自身を,苦しみ・絶望に打ちひしがれながらも生きてきた」という証を得られるという点で,「死して誕生する」ということができそうな気もする。

 

SEKAI NO OWARI 『Never Ending World』に見る死生観

このムンクの死生観に無意識を晒されつつ,偶々セカオワのサントラを回していて,ビビッと来て無限リピートで聴いている曲がある。Never Ending Worldという楽曲である*17。サビの一部を抜き出してみよう。

 「何か」が終わってしまったけれど,

それは同時に,「何か」が始まって,

「始まり」はいつでも怖いけれど,

だからこそ「僕ら」は,手をつなごう,

We are with you,

「何か」として,抽象化されているがゆえに,かなり色々な読み方を許されている楽曲なので,何度か聴いていると違う読み方もできるなあ,と考え,ここ数日この曲しかリピートしていない中毒症状に陥っているのはさておき笑

先ほどのムンクの死生観を踏まえるならば,この「何か」を「生」と捉えると,かなり符合するように思う。すなわち「生」の終わりは,すなわち新たな「生」の始まりでもあり,「その始まり」はいつも怖い,と。しかし,ムンクの誕生ほど「死」を意識している様子もなく,新たな生の始まりをポジティブに捉えている印象を持つ。

楽曲が作られたきっかけを調べていたら,やはり3.11の震災の話に当たった。Saoriがブログにも記載している(https://ameblo.jp/sekaowa/entry-11488188435.html)が,彼らの被災者支援の中で紡がれた楽曲のようである。先日のムンク展の帰りに「カタストロフと美術のちから」展を森美術館に見に行ったが,そこでも3.11は大きな出来事として取り上げられていた。「まごうことなき破壊の中でアーティストとして何ができるのか」を彼らも問い,その中で辿り着いた楽曲だと思うと,聞いている途中でふと涙が出そうになったのも頷ける。

彼らが描く死生観は「死の到来は,新たな生の始まり」とし,恐ろしく悲惨な出来事として「死」を突きつけられ,その中に「生」の意味を見出そうとした,という,ムンクと似て非なるもののように思う*18

もちろん,この楽曲は「学校生活」としての「生」という見方もできるだろうし,恋愛ソングの「1人の異性と付き合った人生」としての「生」とも見ることもできるだろうし,「生命の連鎖」として,親から子への継承のようなイメージも持ちうるだろう*19が,根本には「死と生」の軸が入っているのではないかと,今の所は解釈している。

セカオワって結構深い歌を歌っているな,というイメージがあったが,この歌は特にかなり引っかかるものがあったし,事実相当色々な点でよく練られているように思ったりする*20

 

おわりに

終わりは,同時に新たな始まりだという。この文章の終わりも,新たな誕生を心待ちにしているように思える。私自身がここまで紡いできたものを読者に解釈してもらうことも「誕生」であるかもしれないし,批判し修正してもらうことも「誕生」であるかもしれない。どんな作品も解釈され,批判されることで「始まり」を迎える。それは乗り越えるべきものなのかもしれない。あるいは殺すべきものなのかもしれない。しかし,「死こそ真の誕生」なのであり「終わりは始まり」なのであろう。

つらつらと脈絡なく思いついたことを書いてきたが,ムンクの絵から死生観に飛んで,セカオワの楽曲,ちょうどここ1週間で研究の合間に考えていたことが少しまとまったような気がする。

 

「始まり」はいつでも怖いけれど,だからこそ僕らは手をつなごう。

 

素敵な楽曲に包まれながら,しばし論文を読みつつ,研究と自身の考察を自分のペースで進めてみようと思う。

 

*1:メモ帳に行った美術館が記録されているが,学部3年の時にはまりだして,以後,小さい展覧会も含め40程度の展覧会に足を運んでいるようだ。

*2:「見に行ってもいいかな」と思うのは,先日の横浜美術館でのモネ展(https://monet2018yokohama.jp/)とか,だいぶ前のpanasonic汐留のカンディンスキー展(https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/171017/)あたりに思ったが,義務感すら覚えたのはこれが初めて...。

*3:一部実際にした覚えがあるが,いかんせん自分が何を話したかをすぐに忘れるので,今また思い出しながら書いている。

*4:三浦篤『まなざしのレッスン』か,高階秀爾『20世紀美術』あたりで聞いたフレーズ

*5:西洋美術館は,概ねルネサンス以降の西洋美術絵画と彫刻を展示している。ロの字型の回廊を回り終えてそこから横道に出るあたりから徐々に「絵画」が崩れていく様子を見て取ることができる。ルネサンス的な「均衡/秩序」とバロック的な「装飾/デフォルメ」の間の振動が,イタリア・フランスと場所を変えながら生じたことを回廊を回る形で表現して,そこを振り切る形で絵画のルールが崩れて行ったのを「横道」で表現しているように思え,展示空間として見せ方が上手いと勝手に感心していたり笑
ミレーの絵を過ぎて,セザンヌやマネ,ドガを横目に,通称?「モネルーム」に入っていくあたりは何度行っても感動する。

*6:1回目が土曜日の午後,2回目が金曜夜に行ったのだが,どちらも結構人が入っていた。金曜の夜は,人が少なく結構狙い目だと思っていたが,ムンクの『叫び』は,確かに名前が圧倒的に有名だからとっつきやすいのかもしれない。義務教育の成果なのだろうか笑

*7:認知科学では,「見える=表情」が「見た=気持ち」を規定する「表情フィードバック仮説」(表情フィードバック仮説 - Wikipedia )も提唱され,現在も議論がなされつつ研究されている。例えば,うつ病の患者にこれを応用して治療しようという研究など面白い(http://www.cyber.t.u-tokyo.ac.jp/ja/projects/)の『扇情的な鏡』

*8:錯視 - Wikipedia

*9:ただ個人差が大きい場合も多く,実験デザインが中々難しい...泣

*10:宇多田ヒカルはじめ,こういう系統を歌う歌手も好きではあるのだけれど,流石にいつまで同じテーマをあまり大した違いもなく歌い続けるんだ,というくらい似た表現が出てくるので,そろそろ誰か『日本の90年代以降のポップスにおける恋愛の描かれ方』というレビュー論文を書いていただきたい。ありそうな予感もする。

*11:「いや,それはないだろ」と思った方は,鏡の中でぜひ自分の眼球をじっと見てみて欲しい。映り込む景色も含め中々綺麗だと個人的に思う。「ひと目惚れ」という言葉があるが,あれは「一目見て」ではなく「人の目を見て」惚れる「人目惚れ」ではないかとすら感じるのだが,同意されなそうな予感しかしない...。

*12:強いて言えば,瞼を閉じた時の瞼を観察することができるくらいか

*13:私自身十全に把握していないが,レヴィナスらの「他者」の議論のほか,ケアの文脈や教育の文脈で「他者」を意識せざるを得ず,その中で哲学を試みる「臨床哲学」「教育哲学」などがあると理解している。

*14:実存主義 - Wikipedia

*15:いつか絶対に読み切ってみようと思いつつ,ハイデガー思想の解説ですらまだ読みきれていないのが悲しい...。

*16:ぜひニーチェハイデガーのラインに詳しい方は補足をください...

*17:Fukase作曲の歌詞(http://j-lyric.net/artist/a055790/l025eec.html)とSaoriのピアノの伴奏がとても素敵なので,追って気が向いたらこの曲も題材にとって色々考えてみようと思う。

*18:ある種,元々の「実存主義」に近い,生きることそのものに価値を見出す,という発想に戻ることで,ハイデガームンクの「死」を乗り越えた形になっているようにも見える。

*19:あまりに悲惨な状況で,当初直接描くことが不可能であったので,かなり抽象化した形,あるいは物語に乗せて,など様々な形で記録と解釈が試みられたようである。

*20:サカナクションの楽曲もその系統で好きなので,ぜひ両グループのメンバーにはエッセイを出していただきたい笑