晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

日々を,感じ考えるままに書き留めてみる。一部noteに移動しています

幼児向けアニソン傾聴のススメ(試論)

ドラえもんポケモンアンパンマンとの再会

先日,友人とカラオケに行った際,ふとしたきっかけでアニメソング(アニソン),それもドラえもんポケモンアンパンマンなど,子どもの頃によく見るようなアニメソングの掛け合いになった。カラオケに来た大人が,宇多田ヒカルのFirst Loveだとか,米津玄師のlemonを歌うことはあっても,アンパンマンのマーチめざせポケモンマスターといった曲を入れることは,よほどの物好きでもない限り歌わないだろう。

しかし,この歌詞を眺めていると,中々深いことを言っているのである。幼稚園生や小学生にこれを聴かせるのか,というくらいには。10年単位で聴いていない方も多いと思うが,ぜひ一度聴いてみて欲しい。何十年も世代を超えて語り継がれる国民的アニメは,やはりそれにふさわしい威風堂々たる国民的アニメソングが脇を固めていたようである。

これらアニソンが何をどう伝えようとしていたのか。以下,具体的に何曲か挙げてみながら,少しばかり私なりの考察を書き留めてみようと思う。

 

その1 『夢をかなえてドラえもん』(ドラえもん*1

ドラえもんの声優が,大山のぶ代から水田わさびへと変わった後のオープニング曲である。「こんなこといいな〜できたらいいな〜」という古いオープニング曲が馴染んでいた私は,水田わさびドラえもんとこのオープニングが少し違和感を持った子ども時代もあったが,今の子たちは,むしろ大山のぶ代ドラえもんを知らないと思うと,中々のジェネレーションギャップを感じる。

心の中 いつもいつも描いてる(描いてる)

夢を乗せた 自分だけの世界地図(タケコプター〜)

空を飛んで時間を越えて 遠い国でも

ドアを開けてほら行きたいよ 今すぐ(どこでもドア〜)

大人になったら忘れちゃうのかな

そんな時には思い出してみよう

「空を飛べるかな?」「昔の自分に会えるかな?」

子どもの頃は,できることできないこと関係なしに,色々と空想に浸ってはまさに「自分だけの世界地図」を描いていた。「世界地図」の部分を「学問/知識の地図」と読み換えるならば,彼らの中で描かれた素朴概念・経験知を指しているとも解釈できる。

もちろん,その「自分だけの世界地図」は科学的に間違っている場合もあり,それは教育の中で発見され,修正されていく。しかし,私たちは教育の成果によって,幸か不幸か「自分だけの世界地図」をあまりに失いすぎではないだろうか。後半の「大人になったら忘れちゃうのかな?」という言葉は,それをストレートに言い当てている。

「自分がこうありたい」「世界がこうあってほしい」という欲求は,得てして行動の原動力となることが多い。むしろ,教育として「自分だけの世界地図」をしっかり持たせるようなものは模索されえないのだろうか*2

やりたいこと 行きたい場所 見つけたら(見つけたら)

迷わないで 靴を履いて 出かけよう(タイムマシン〜)

大丈夫さ ひとりじゃない 僕がいるから

キラキラ輝く 宝物探そうよ(四次元ポケット〜)

道に迷っても泣かないでいいよ

秘密の道具で 助けてあげるよ

...(後略)

「カブトムシ,取りに行きたい!」「たくさん星が見えるところに行きたい!」

幼稚園や小学校低学年の子供達が,しきりに父や母の説得を試みる姿が容易に想像できる。歌詞の前半部は,やりたいことや行きたい場所が見つかったら,迷わず出かけようと,自分の好奇心やモチベーションを大切に,そしてそれをそのまま持って外に飛び出していってほしいというメッセージが伝わってくる。ラッセルの『幸福論』にも示された,「外への興味」が幸福の源泉であるとする幸福観にも近いのだろう。

日々の仕事や学業と人間関係の調整に忙殺され,3000円の虚無生産飲み会と気晴らし手段としての旅行やエンタメ施設訪問に支配される日常。「やりたいこと」「行きたい場所」すら段々と見出せなくなってくる大人社会に痛烈な皮肉を投げかけているようにすら感じる*3

さらに,後半部は『ドラえもん』全体の世界観も反映している。自分は,「君のすぐ隣にいて,困った時に助けてくれるロボット」だと。

そのドラえもんを頼りにしながら,好奇心を持って外に飛び出し,「宝物=自分が心から素敵だと思えるもの」を探してほしい。たとえその過程で「道に迷っても=何かうまくいかないことがあっても」,一人じゃない,助けてくれる人やロボットがいる。それを信じて前に進んでほしい。そんなメッセージを感じ取った*4

これは,次のポケモンの歌にもある「うまくいかない時は必ずある。だけどそこには,助けてくれる仲間たちがいる」とする人生観にも通ずる。大半の大人が失っている「好奇心で外に飛び出す精神」を是とし,そこを軸に人やロボットと協力しながら,夢をかなえていこうという哲学が見えてくるのである。

その2 『めざせポケモンマスター』(ポケットモンスター*5

この曲を聴いて育ったといっても過言ではない。ルビサファからダイパ世代であり,最近の話題にはついていけなくなってきたが,中学の定期試験の勉強を右手でして,左手でズイタウンの育て屋ロードを快走していた自分*6は,一時期本気でポケモンマスターを目指す気だったとすら思える。

この曲の歌詞では,いわゆるBメロ?にメッセージが込められているように感じる。

いつもいつでも うまくゆくなんて

保証はどこにも ないけど(そりゃそうじゃ)

いつでもいつも 本気で生きてる

こいつたちがいる

「こいつたち」が「本気で生きてる」という表現。感情にストレートに訴えてくる言葉である。ここでいう「こいつ」の指示対象は,ポケモンたちだけでなく,カスミやタケシ,そして旅路で出会う数多くの人々も入っているように思う。「頑張って」ではなく「本気で」と書いたところに作詞の妙を感じる。ここでいう「本気」には,「頑張る/頑張れない」という次元ではなく,「人間を含め全ての動物は,存在し生きていること,その時点で常に『本気』である」という,「懸命に生きている」その事実への畏敬の念が,何気なく感じ取れる。

昨日の敵は 今日の友って

古い言葉が あるけど(古いとはなんじゃ)

今日の友は 明日も友達

そうさ 永遠に

ワンピースの「仲間はみんな助ける」という発想や,試合の外では敵味方関係なく皆が友であるというラグビーの精神に通ずる部分がある。

ポケモンには,ご存知の通りロケット団という敵役がいるのだが,この敵役が悪役じみていないのである。あまりに行動が稚拙であるし,何しろ恐ろしく前向きである。池井戸潤が描く「勧善懲悪型」すなわち「極悪人に正義の鉄槌を下す」という形式では描かれていない。むしろ,見ている側は,彼らに「悪い奴らだけど,なんか憎めない」という印象を持つ。ドラえもんジャイアンスネ夫然り,アンパンマンばいきんまん然り,これは共通した印象である。

クラスの中にいる「ガキ大将」や「威張りっ子」,何かちょっと冷たい上司,世の中に「悪」とされる人々は,意外に多い*7。しかし,彼らの「悪」は,ジャイアンが映画だとのび太を助けるヒーローになるように,ロケット団がサトシたちのピンチにさりげなく手を差し伸べることがあるように,純粋な極悪非道ではないのである。自分たちの見方を変えれば,あるいは時と場合が変われば...。「悪」とし断罪しようとしているものが,相対的であるかもしれないという批判精神の醸成を訴えているのだろうか*8

そう考えると,『半沢直樹』『ドクターX』『ブラック・ペアン』など勧善懲悪の単純な構図よりも,より重層的な「悪と正義」の問いが,これらのアニメに描かれているのだろう。

夢はいつか 本当になるって

誰かが歌っていたけど

つぼみがいつか 花開くように

夢は 叶うもの

「つぼみがいつか花開くように 夢は叶うもの」

この表現が文学的で中々に趣深い。「つぼみ」と「花」という例えは,もしかしたら「水をあげねば枯れてしまう」という植物のメタファーから取ってきたのかもしれない。ドラえもんの楽曲が訴える「好奇心を元に外に出よう」という精神のように,「好奇心が枯れると花も夢も枯れる」ということを訴えたかったのだろうか*9

その3 『アンパンマンのマーチ』(アンパンマン*10

アンパンマン。顔があんパンで出来ていて,お腹が空いている子供達に自分の顔をちぎって食べさせてあげ,バイキンマンなどの悪者を「アンパンチ」と倒すヒーローである。この曲が「心肺蘇生法」における,心臓マッサージのリズムと一致することから,「AEDが来るまで,アンパンマンのマーチのリズムを刻みながら心マしろ」と言われ,その歌詞があまりに「生」を深く問うていることから,それは如何なものか,としばしばネタにされることもある。

やなせ氏自身も「アンパンマンに込められた哲学」を語っている*11。特に,同記事からの引用で学芸員倉持氏の解説を追っていくと,

(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した街も,どうなったのかわからない。そういうヒーローって,本当の正義なんだろうか。本当にお腹が空いて困って,ひとりぼっちで寂しくてっていう人のところには,そういうヒーローは,なぜか現れない。

誰を一体助けているんだろう,そういう疑問があって,それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。

(中略)

お腹が空いた人にパンを,自分が食べたいけどそれをあげる。これは誰にでもできることだけど,自分が,本当にお腹が空いて死にそうになっているときに,果たして,それができるか。傷つかずして人を助けることはできない,そういうことを言いたかった。

 

と言いつつも,書いた手前として少しばかり楽曲に関する私論を試みる。

そうだ 嬉しいんだ

生きる 歓び

たとえ 胸の傷が痛んでも

「生きること」そのものの,これほどまでに直接的な肯定。これを幼児向けの楽曲の冒頭に持って来るのが,やなせ氏の

幼児用だというので,グレードをうんと落とそうという風に考えるんですね。...僕はそう要求されたんですけど,違うんですよ。全く違うんですよ。非常に不思議なことにね,幼児というのはですね,お話の,この本当の部分がね,なぜかわかってしまうの。

という話をありありと映し出している。「胸の傷が痛む」は,日々の生活の中での苦しみや悩みに一般化しても良いだろう。すなわち,「たとえ,色々辛く苦しいことがあっても,生きる,生きている歓びというのは,とてつもない奇跡であり,嬉しいことなのだ」というやなせ自身の人生の中での気づきを歌い出したのかもしれない。

何のために生まれて 何をして生きるのか

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱い心 燃える

だから君はいくんだ 微笑んで

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

わからないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を こぼさないで涙

だから君は 飛ぶんだ どこまでも

「何のために生まれて,何をして生きるのか」・「何が君の幸せ,何をして喜ぶ」

人生の究極的な問いは「私が何のために生まれたのか。私が何をして生きるのか。」と「私にとって,何が幸せなのか。何をして喜ぶことができるのか。」であることを,短く鮮やかに歌い上げる。それがわかることこそ,「生きる意味」であり「幸福」であるのではないかとすら訴えかけている。

一方で,やなせたかし氏は冷淡ではなかった。各々の後半部には,しっかり読むとそれぞれの問いを考える氏なりのヒントが提示されている。

まず,「生きる意味」に対しては,「今を生きる」ことが大切なのだと。「今,ここに存在している」という実存を肯定し,今まさにこの時を「生きる」必要があると。懸命に生きる中で,色々なことに対して熱い心が燃え,結果的に「何をして生きるのか」という将来が見えてくるのではないか,あるいは,「何のために生まれてきたのか」という過去が見えてくるのではないか。そう主張する。「今の自分を懸命に生きよ。さすれば未来の戸は開かれん。」というのが彼からのメッセージなのだろう。

次に,「幸せ」に対しては,夢を忘れるな,涙をこぼすなと。「夢を忘れるな」というのは先の「好奇心が夢を必ず掴む」という,ポケモンドラえもんに見られた哲学に通底する思想である。後半の「涙をこぼすな」が,一見すると,うまくいかないことはしばしばあるが生きよう,と,励ましの言葉をかけた前2つの楽曲と異なる。しかし,彼も「人生の中に辛さが存在する」ことは肯定しているだろう。それは彼の戦争体験がそうさせざるを得ないと考える。辛さは存在するが,涙は流してはならない。これを繋ぐのは「忍耐」「辛い状況をじっと耐え抜く」ことを訴えていると考えると納得がいく。つまり,「人生には辛い状況が,しばしば存在する。しかし,そこで涙を流して諦めるのではなく,じっと耐え忍び,夢を諦めるな。」と解釈してはどうだろう。さすれば,苦痛への忍耐と夢の追求を両立させた中で,「自分が何が幸せなのか」「自分が何をしたら喜べるのか」がわかるのではないか,と言いたいのではないだろうか。

 

アニメ世界から滲み出る人間の本性

ドラえもんアンパンマンは,心が幼い「子ども」がみるもの,大の「大人」はそんなものはさっさと卒業して月9だとか大河ドラマをみるべきだ,そういった固定観念同調圧力が吹き荒れている。しかし,一度立ち止まってドラえもんポケモンを見てみよう。単純明快な話の中に,明瞭なメッセージが組み込まれている。しかも,そのメッセージは決して「子ども」だけに向けたものではないはずだ。さらに興味深いのは,子ども向けとして作られている楽曲やアニメなので,言葉が非常に単純で,小難しいことを言わずに哲学的な問いやその指針を示しているところにある。

翻って現実を見ると,確かにそんなに単純ではないことがわかる。人間関係の中に悩みは尽きず,そこを描くのが写実的であるという意見は最もだし,私も子供向けアニメが理想化された部分は大いにあると思う。しかし,抽象芸術に与した画家*12が現実世界から本質的なエッセンスを抜き出し描いたように,藤子・F・不二雄やなせたかしも,「人間的な生き方」の本質を抽出して物語世界に乗せたのではないのだろうか。それが,ドラえもんの世界観であり,アンパンマンの世界観なのである。

数年前か,ふとしたきっかけで麻生太郎サブカルに関する国会答弁をYouTubeか何かで拝聴し,痛く感動したのを思い出す*13。曰く,「ポケモンは,言葉が通じなくともコミュニケーションができる文化を植えつけた。ドラえもん鉄腕アトムは,ロボットが人間が困った時に助けてくれる概念を植えつけた。ワンピースは,困った奴はみんな助けるという哲学がある。」と。

アニメの殿堂と呼ばれた国立メディア芸術センターは,麻生内閣の退陣と旧民主党政権の事業仕分けにより「要らない」とされ,夢物語に終わった。しかし,日本のアニメやマンガの文化は,純文学に勝るとも劣らない哲学と思想を持ち,さらにそれを伝える媒体としての有効性を持っている。果たして,これらの文化を伝える施設は「税金の無駄」なのであろうか。私はおよそ疑問を持たざるを得ない。

アニメの世界は,確かにかなり理想化されたものである。しかしそこに描かれた理想郷には,私たち大人が,日々の生活に忙殺され見失いがちな「人間本来の生き方やあり方」を見いだすことができるのではないだろうか。 

*1:夢をかなえてドラえもん - YouTube

*2:新指導要領の「知識活用」の本質の一つは,自分自身の価値観の中に知識や学問を落とし込んでいく作業にあると思っているので,その文脈で「自分だけの世界地図」を作れる試みができると面白いかもしれない。

*3:流石に言い過ぎかもしれないが,目をキラキラさせて日々を送る大人は,私の身近には,研究者の一部くらいしか見出せない...。

*4:ちなみにこれを書いている間,ドラえもんのこの歌を始終リピートしているので,書いている途中で耳を傾けると結構新しい解釈が思いつくのである。

*5:めざせポケモンマスター - YouTube

*6:ダイヤモンド・パールの育て屋があるズイタウンは,比較的長距離を上下キーの操作だけで駆け抜けられる道路が存在する。その前を快走し,ひたすら個体値の高い個体を厳選した日々が私にもあったという。

*7:村田沙耶香の『殺人出産』で描かれた「何となく殺したい人」がこの「悪」に対応するのだろうか

*8:ただ,いじめや種々のハラスメントのように,例え相手に承認欲求や拠のない事情があったとしても,「悪」として断罪すべき事象も多数あるのはまた事実である。ただ,ここ最近の「ハラスメント」の議論は,一部において過度になり,「悪」を過剰に作り出しているのではないかと思う節は個人的にあるが...。

*9:「好奇心が枯れると人間が枯れる」という話を聞くと,ドラマ『女王の教室』の教師,阿久津真矢の言葉を思い出す。「どうして勉強をするんですか?」と問うた生徒に対して,曰く「(前略)自分たちの生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるというのですか。いくら勉強したって,生きている限りわからないことはいっぱいあります。世の中には,何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが,あんなものは嘘っぱちです。いい大学に入ろうがいい会社に入ろうが,幾つになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。好奇心を失った瞬間,人間は死んだも同然です。」と。(http://makotodiary.hatenablog.com/entry/2014/09/29/001826を参考)

*10:https://www.youtube.com/watch?v=ZIuhAQyneLc

*11:http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3423/1.html

*12:カンディンスキーの絵は,抽象表現の中でも大変面白い。「リズム」や「音楽」などそもそも視覚に知覚されないものを,いかにして「絵に描く」のか。彼の絵には,その実験的表現の形跡が多数見られる。特に,彼の『点と線から面へ』(https://www.amazon.co.jp/dp/4480097902)は,今の感性工学にもつながるような「斜め上に向かう線は暖かく感じる」「三角は黄色」のような感性を視覚的に表現する上での指標を(一部は今の感性工学の結果と一致しないが)示している,当時としては恐ろしく前衛的な論である。

*13:https://www.youtube.com/watch?v=QVgtxp16y30 :この演説が動画として残っているものがあまり見当たらず,やむなく引用した。動画主やその主張など動画の外の事項に関しては一切中立の立場を取る。