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寸評:東大現代文 平成30年度・野家啓一『歴史を哲学する』

*この記事は,東大現代文の点数を手っ取り早くあげたい方が来るところではないので悪しからず。やることがなく暇を持て余した受験生や,課題に飽きた大学生のための暇潰し程度の記事です。

はじめに

先日,偶然に東大の過去問を見てみたら,昨年の出題が野家啓一先生の著作で驚いたことを記憶している。ちょうど年末に同じ野家先生の『物語の哲学』(岩波現代文庫*1を拝読したので,文章自体も非常に身近に感じた。

東大のwebページ(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_01_18.html)をちょっと覗いてみると,「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」として,こう書かれている。

国語の入試問題は,「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて,高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし,文系・理系を問わず,現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。

(中略)

学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ,それに留まらず,自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは,総合的な国語力を養うよう心掛けてください。

東大Webページ「高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと」国語

なるほど,「自己の体験総体を媒介に考える」とは,まさにここ最近の生活の「体験総体」として文章を解釈することが許されているようだ。そんな訳で東大の過去問の解釈を書いてみる*2。記事を増やしていくつもりだが,恐らく一つ一つそこそこ重いので,回を分けて書いていきたい。

 

平成30年度入試(野家啓一『歴史を哲学するー七日間の集中講義』*3

テーマ自体は,歴史哲学・物語論だが,著者の野家啓一氏が理系出身で科学哲学者というのもあり,著作の中の例示にその片鱗を見ることができる。以下,いくつかの章題をつけて,解釈を試みたいと思う。

物語り行為と歴史

余りに単純で身も蓋もない話ですが,過去は知覚的に見ることも,聞くことも,触ることもできず,ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが,歴史的過去においては「物語り行為」であるというのが僕の主張にほかなりません。

1185年 守護・地頭の設置,1192年 鎌倉幕府の成立...。歴史の教科書には,さもその現場を見てきたように書かれている。歴史小説大河ドラマにも戦国武将や明治維新の志士たちが活き活きと描かれている。しかし,これら教科書や小説・ドラマを描いている人間は誰一人としてその戦の現場,明治維新のその時を見た者はいない。一体,なぜそのドラマを,史実を描けるのか?あるいは,そもそも歴史は,所詮誰かが見たように書いているだけの,フィクションに過ぎないのではないか?こんな問いかけに始まっている。

歴史を記述するには,解釈が生み出す「物語り」行為が必要となる*4。ちょうど「鎌倉幕府の成立」を巡って解釈が割れた話を思い出して取り上げたが,「物語り」行為において,中立的な神の視点からの観察は不可能である。なぜなら,歴史家本人もまた歴史の中に存在しており,歴史学の流れの中に存在しているから。E. H. カーは『歴史とは何か』の中で,「歴史は現在と過去との対話である」という印象的なフレーズを残しているが,まさに過去との対話なしに,物語りとしての歴史は存在し得ない。

さらに歩みを進めるならば,例えば,昨日こだわりやで唐揚げとチキン南蛮のハーフアンドハーフ*5を食べただとか,先週末どこに行ったかだとか,そう行った自身の体験自体も,今の自分が「なま」の状態で眼前に出すことはできない。野家は,前者の「史料や発掘から明らかになった歴史的出来事」を歴史的過去とし,後者の「自身が体験した過去の出来事」を体験的過去としている。

 

理論的「探究」の手続きの重要性:仮説演繹法と科学理論

以上の話から,物理学に見られるような理論的「探究」の手続きが,「物理的事実」のみならず「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。

歴史的過去も,体験的過去も,必然的に解釈の過程が存在する。これは,完璧に中立的ではありえない。 個々人の思想や価値観による部分もあるし,経験に依存する部分もあるだろう。「パラダイム」論がいうような,学者の合意形成によって成立する部分もあるかもしれない。

この「解釈」の不可避性は,学問の広範な領域に空気のよう漂っている。学問はそれとどう向き合うかを考える必要がある。その中で,科学技術研究の中では,理論的探究の方法論が確立していった。のちに,社会科学・人文科学にもそれを応用する形で広がって行ったようである。その一部を私の理解している範囲で書いてみよう。

科学理論の存立に一役買うのは「仮説演繹法と呼ばれるプロセスである。ある科学的な現象をみつけたら,そこから仮説を生み出し,それに基づき,ある科学理論を作る。その科学理論は(理論が適用範囲とする)別の現象を正しく予言できるかテストされる。大まかにこんな流れで学問が構築されていく。

例を挙げてみよう。私の今の専攻は典型例としては出しづらいので,学部時代の物性物理学,特に超伝導を例にとろう。

超伝導分野の研究は,1911年,H. K. Onnesが発見した。水銀の電気抵抗を温度を下げながら測っていった際,あるところ(4.2 K)で突然ゼロになる*6不可思議な現象が起こったのである。

さて,ここから科学的方法に則るとどのように動くのだろうか。まず,この不可思議な現象に対して,既存の理論から様々な仮説が立てられる。

  1. そもそもOnnesの測定方法が誤りだったのではないか。同じ物質を別の研究者がやれば,その値は変わるのではないか。
  2. 別の物質ではどうなのか?水銀に特有の性質なのか?
  3. 物性物理学の既存理論(電子が電気伝導を担い,電気抵抗率は絶対零度ではゼロになる)によって説明がつくか?

といった問いが生まれる。この問いに付随して,様々な仮説が生まれ,これらが検証されるプロセス(再現性の確認)が入る。次いで,それらの仮説の中から,新しい科学理論が生まれてくる。超伝導の理論は,London方程式に始まり,GL理論,BCS理論と時代を下るごとに新たな理論が提案されてきた*7。そして,これらの理論はテスト(検証)され,現象の説明がどこまで可能かについてが検証される。もし,テストに合格しない(反証された)場合は,その理論の「枠」の外側に説明できない現象が存在するかもしれないということで,新たな理論や既存の理論の修正が求められる。

概略ではあるが,こんなプロセスを繰り返すことによって,科学は「限りなく中立で客観的で,なおかつ謙虚な理論体系」として飛躍的な発展を遂げてきた*8

また,歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存知の通りです。その意味で,歴史的事実を一種の「理論的存在」として特徴付けることは,抵抗感はあるでしょうが,それほど乱暴な議論ではありません。

本文では,「歴史的事実」の確定もまた,史料分析や年代測定によってなされる点で科学的なプロセスと類似をみており,その結果生じた「歴史的事実」は,ある種の「理論的存在」になることが述べられている。さらに,日付変更線や赤道といった例の「実在」も,天文学や地理学の理論によって成立する「理論的存在」ということを指摘している。

この「素粒子」と「フランス革命」と「赤道」の3つを挙げて「理論的存在」というキーワードで結びつけてしまうのが,著者の広範な教養と思考のなせる技であり,初めて読んだときは,「いや,それ確かに言われてみればそうだろうな〜。自分でその例を出せといわれたら無理だけど。」という尊敬の念に堪えなかった。

 

「神の視点」が不在である中での,「物語り」行為の意味

...すなわち「物語り」のネットワークに支えられています。このネットワークから独立に「前九年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者,すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。...つまり「前九年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり,その存在性格は認識論的にみれば,素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。

野家が「物語り」と「物語」を区別している一つは,この文章に現れている。つまり,歴史的事実は,歴史書や史料が「物語る」ことあるいは平家物語のような琵琶法師の「物語る」行為そのもの*9が存在することによって成立し,全てを鳥瞰し書き留めるような「神の視点」は存在しないけれども,そのネットワークに支えられる形で一つの歴史的事実が存在している。誰もが好きな「物語」を語っているのが歴史学ではなく,物語り行為を通じて,それを支えにして度重なる検証や考証の末に,歴史的事実が紡がれていく,そんな歴史学のあり方を示している。何より,「物語り負荷的」の「負荷」という単語の選択に,筆者の妙を感じる。

最初の問いに答えるならば,史料や歴史書が「物語る」ネットワークに支えられて歴史的事実が「理論的存在」としての地位を確保できる,その点でフィクションとしての歴史と一線を画す,というのが,筆者の論の骨子であろう。

 

私自身,科学コミュニケーションをはじめとした対話デザインを手がける機会が多いため,コミュニケーションにおける解釈の問題とその中で理論的存在や科学理論などをどう扱っていくかは積年の課題である。今は,コミュニケーションの中の表現の部分に興味を持って小説を片手間に読み漁ったり書いたりしているが,ナラティブ・アプローチ(物語り論)にも注目していきたいように思う。

*1:https://www.amazon.co.jp/dp/4006001398

*2:なお「解説」でなく「解釈」なので,傍線部への解答を示すことは特段しないし,私見や私なりの理解が多分に入ることをお許しいただきたい。いくつか本を紹介するはずなので,ぜひご自身で生の情報に触れてほしいと思う。また,入試問題は東大公式のリンクを貼っているが,恐らく時が経つと消えていくので,某ハイスクールや赤本・書籍自体などを参照していただきたい。

*3:https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400081295.pdf , https://www.amazon.co.jp/dp/4006003420

*4:ここで「物語り」と動詞の形で使っている点に注目したい。野家は,「物語(story)」としての完成物ではなく,「物語る(narrative)」行為そのものを哲学しようと試みている。歴史哲学 - Wikipedia

*5:本郷近くのお店で,ワインが美味しいし,鶏料理も美味しいので大変オススメである

*6:「これは超伝導体である」と主張する論文を見ると,大抵の場合,この「突然ゼロになる」グラフが出されている。

*7:こう書いたものの,今ホットな分野の一つは,むしろそのBCSの壁を破ったYBCOや鉄系の高温超伝導体の研究,重い電子系など,既存の理論で説明しきれない現象が数多く報告され,また理論と検証を組み立てている段階のよう。最近1年,あまり動向を追ってないので現在進行形で物性物理の専門の方に聞いた方が良いと思いますが。

*8:ただ,生物学の分野など再現性が取りづらい分野もあると聞くし,最先端の研究だと,それこそ素粒子をぶつけてごく稀に信号が取れる,というような事項もあるので,一概には言えないだろうが。

*9:『物語の哲学』では,柳田國男の口承伝達,民間伝承に注目した一場面があったことを思い出す