晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

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対話デザインと科学コミュニケーション(2) 〜思想編〜

 

 

はじめに

前編(https://yuuki-philosophia.hatenablog.com/entry/2019/08/03/231413)では,私の今に至るまでの活動経緯を述べてきたが,後編では,UTaTané(https://utatane.github.io/)での「対話デザイン」の活動について,その立ち位置と意義を明確にし,実践例を紹介していくこととする.

 

背景:科学/学問と社会を取り巻くさまざまな問題

科学の歴史は,古くはアリストテレスの生物分類学/解剖学から,近代科学に限定してもケプラーニュートンガリレオらの物理学・天文学から始まる何百年という長い歴史がある.そして,その歴史的発展の過程で客観的かつ普遍的な知識を追い求る方法論を精緻化し,汎用性の高い莫大な知識を生み出してきた.それらは,産業革命以後の近現代社会の発展に大きく貢献している.

しかし,こと「科学と社会の関わり」についてみてみると,暗黙のうちに産業や工業への応用はなされていく一方で,その繋がりが特段取りざたされるようになるのは歴史的には新しい.科学技術社会論(Science, Technology and Society : STS)と呼ばれる「科学と社会/科学の社会性」を探求する分野が1960年代ごろから勃興し,今尚発展を続けている*1.同時に,科学と社会をつなぐ役割としての「科学コミュニケーション(Science Communication : SC)」が広く求められるようになってきた.現在でも,未来館のサイエンスコミュニケーターやJSTのサイエンス・アゴラ,その他多くの学生団体・市民団体により活動が続けられている. 

サイエンスコミュニケーションが何を目指すべきかを考える上で,まずは「科学と社会」において,現状何が問題になっているかを私なりに整理してみる

以下,(1) 社会の分断の危機,(2) 記号消費社会の果てに,(3) 疑似科学との仁義なき戦い,(4) 科学信仰・科学原理主義との望まぬ戦い,(5) 科学/学問への無関心層の増加の5つに分けて概説していく.

 

(1)社会の分断の危機

先日から,あいちトリエンナーレにおける『表現の不自由展・その後』の一連の騒動をめぐり,主催者・政治家・有識者・その他国民を巻き込んだ大きな論争が巻き起こっている.「表現の自由・検閲の禁止(憲法21条)」を根拠に今回の政治的脅迫とも取れる申入れによる中止を問題視する声がある一方,作品の内容がいわゆるヘイトと類似するものであることから,それらを税金で展示すべきではなかったという声も上がっている*2

3日で中止に追い込まれたこの展覧会については,そのタイトルの「表現の不自由」自体以上に「社会の分断」を不気味なほどに可視化してしまったことが印象深い.政治家のTwitterのリプ欄など悲惨なもので,議論に何の進展もなく,ただ自分はこうだ,私はああだと鬱憤を晴らすように言い続け,ただの憂さ晴らしの場所に成り下がっている.

SNSネイティブな層が増えてきた令和の時代,「ブロックによる不快の圏外化」と「リツイート/シェア/ファボによる快の強化」というシステムによって,あるいはAmazonGoogleなどの大量のデータに基づくオススメのシステムによって,私たちは常に「自分にとって心地の良いもの」しか目にすることがなくなってきた.

南後『ひとり空間の都市論』(ちくま新書*3では,孤独のグルメを題材にした序章の中で(少しニュアンスは違うが)「検索可能性」と「遭遇可能性」という言葉を使って,この状況を対比させている.ホットペッパーグルメや食べログなど様々な検索システムによって他者の評価が可視化されることで店の「検索可能性」が強化され,孤独のグルメ井之頭五郎がやっているような,「ふらっと立ち寄る」「通りすがり」の「遭遇可能性」が追いやられている現状を,孤独のグルメを交えてユーモラスに分析している論考である*4

私たちは文字通り「未知との遭遇」を圏外*5に排除し,自分の目の届く範囲には心地よいものしか置かない.従来からそう生きていたはずだが,人間関係が全世界に拡張された今,地球規模でその「快ー不快による選別」が行われ,結果として人間の集合体たる社会が地球規模で分断されていっている.

その分断は「科学と社会」の関わりも例外ではなく,総じて科学者は議論のクラスタから大きく外れ,科学者内でのコミュニケーションに終始しているという(https://twitter.com/AKT_TR/status/1105119541305081856http://www.nikkei-science.com/201904_044.html).(4)の疑似科学や(5)の科学信仰にも関わるが,研究者というオタクがオタクじみた研究をし,その成果の一部が社会に偶発的に還元されていくような閉鎖的なあり方は20世紀初頭はまだそれで十分だったかもしれないが,科学がインフラ化した21世紀において,「科学の閉鎖性」はむしろ分断を助長する一方である.

それを解消しようと,近年では「開かれた科学」というワードが掲げられ,オープンキャンパスや研究室公開・サイエンスコミュニケーション・サイエンスカフェなど様々な試みが行われている.しかし「開き方」に熟慮のない形式的な開放は,「科学は自分に関係ないものだ.科学好きのオタクたちがやっているものだ」と本質的な分断を結局何も解消せず,ただの時間の浪費に終わる危険性が高い.この「開き方」こそ今考えるべき問題の一つであるといえる. 

 

(2)記号消費社会の果てに

哲学者ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』のなかで,記号消費社会という議論を展開している

*6.記号消費社会の議論では,「もの」の様々な特徴を記号として捉える.ブランドやCMによる宣伝効果など,プラスのイメージ・色・形状などの「記号」によって,商品の価値が増加・下降することは想像に難くない.服やバッグのブランドなどその最たる例で,ブランドのロゴがつくだけで,大した生地を使っているわけでもないのに価格が2倍・3倍に跳ね上がる.このように,実際的な生産行動を持たない「記号」によって生産が行われ,それを消費することによって経済が回っていく仕組みを「記号消費社会」というわけである*7

ノーブランドとして売り出した「無印良品」も,実はこの記号消費社会の議論を受けて誕生したと言われており,「無印で十分だ」という新たな記号を生み出し,無印ブランドとして名を馳せている

*8

この記号消費社会は,ありとあらゆるものを「記号」として消費対象にすることで,消費者の消費者化を促した.すなわち,すべてのものを「消費対象」としたことによって「24時間消費状態」が作られたことになる.電車の中を見渡しても,およそ8割から9割の人がスマホを片手に,Twitterで有名人の結婚報道にほくそ笑んだり,ニュースアプリのニュースをチェックしながら意中の相手に起きがけのLINEを送ったり...あらゆる行動がすべて「記号/コンテンツの消費」という形で消費されていく.おそらく,科学や学問に関するニュースや報道もこれらと同じカテゴリとして,日常の一コンテンツ/一エンタメとして消費されている.

もちろん一エンタメに甘んじるのも一案である.実際,教育系YouTuberと呼ばれる一群が登場し,分かりやすい講義や面白い実験で子供達の興味を惹いていることは事実であるし,多数の学生団体・市民団体が「科学の面白さ」を謳って,私から見ても楽しい科学実験を見せている活動には,「科学への興味を持ってもらう」という意味で一定の意義がある.

しかし,それでは疑似科学や科学信仰といった問題を十分に解消できないし,科学の無関心層は大半が無関心なままであるだろう.科学が他の宗教や思想と大きく違う点は,前編でも述べたように「徹底して謙虚に客観的知識を追い求める姿勢」と「自浄作用(反証可能性)を常に持つこと」にあるが,こういった類稀なる素質を持つ知識体系を他の一コンテンツと同じ単なるエンタメの形で消費させて良いものなのだろうか

岸田『科学コミュニケーション』は,

個人の生存にとっても,人類全体の生き残りと繁栄にとっても,科学は実に大きな力を発揮してきました.おそらくは,今後の私たちの生き残りのためにも必要となるでしょう.ただし,いろんな難しい問題に直面している現在,私たちの強力な道具だった科学自体の見直しや位置付けも必要になってきています.「科学の側」と「そうでないがわ」で価値観が分離したままであったり,科学に無関心であったりしていては,人類にとって不利なのです.

として,人類全体が「好き嫌い以前に関心を持つ環境を作る」ことの重要性を訴えている.一方で,現状のサイエンスコミュニケーションの多くは,記号の再生産でしかなく一コンテンツとして,有名人の結婚報道や恋文と同列の立ち位置で消費されるに過ぎなくなっていると見受けられる.

果たして,どうやったらそれらとの差別化をし,単なるエンターテイメント的コンテンツから脱することができるのか.現状での私の課題の一つはそこを考えることにある.

 

(3)疑似科学との仁義なき戦い

水素水,マイナスイオンゲルマニウムネックレス....科学を専門にしている集団からすると全く無根拠の「記号」が大量に売買されている.いわゆる疑似科学の例は枚挙にいとまがない*9.そしてこの詐欺まがいの疑似科学は総じて科学よりも人々に浸透しやすい.なぜかといえば,科学はその徹底した謙虚さゆえ複雑かつ抽象的でわかりにくい学問になっている一方,疑似科学は総じて「単純明快・具体性が高い・断言調」であることによる.単なる消費者として口を開けて待つことが多くなった現代社会においては,単純で一見信頼の置けそうな疑似科学の方が圧倒的に受け入れられやすいのである.

池内は,著書『疑似科学入門』のなかで,疑似科学に対抗するには,科学のアイデンティティである懐疑・批判精神を持つことによってなされると述べている.私自身も,科学のアイデンティティその内容よりも「徹底的に謙虚で,自浄作用を持つ」という方法論にあり,そこをいかにうまく浸透させるかが課題となると考えている.

この問題は,近年取りざたされる「フェイクニュース」とも関わりがあると考えられる.情報を的確に見つめ,批判し,判断していく能力を身につけることは,科学の理解にとどまらず,生きていく上でかなり重要なスキルになりうるだろう.

 

(4)科学信仰・科学原理主義との望まぬ戦い

疑似科学がはびこる一方,科学を絶対的に信頼する人々も一定数存在する.特に科学者や科学好きな中高生・学生に多いと思われるが,科学への絶対的信頼(「科学神話」とも呼ばれる)は,極端になれば危険な思想たりうる.科学で解明しきれない部分は現状多数あるわけだし,そもそも科学の姿勢だけでは抜け落ち,将来も拾い上げられないような部分も山ほど存在するだろう.これを鑑みず「科学の力があればなんでも解決」などと吹聴すれば,それこそ新興宗教が誕生するわけである.

何度目かはわからないが,科学の最大のアイデンティティは「徹底的に謙虚で,自浄作用を持つ方法論」であり,デカルトが「我思うゆえに我あり」として方法論的懐疑から「思考する我」にたどり着いたならば,科学を方法論的懐疑により削ぎ落としていった先には「科学の方法論」の部分に辿り着くはずである.

私自身はその「徹底的に謙虚で,自浄作用を持つ方法論」のみに絶対的な信頼をおき*10,科学理論は常に(一定程度の信頼を置きつつ)批判的な眼で吟味していく必要があると考えている.

科学コミュニケーションには,そういった「科学神話」を打ち砕き,正しい科学の立ち位置を見せることもまた必要だろう.

 

(5)科学/学問への無関心層の増加

岸田が『科学コミュニケーション』で指摘するように,欧米は「非科学(宗教や人文主義に基づく科学に対抗した思想・理論)」,米国は「反科学(進化論の否定など,科学自体へのアンチ思想)」,日本は「無関心」があり,それぞれにあった科学コミュニケーションが必要である.日本では「科学への無関心」をいかになくしていくかが大きな課題となり,自分自身の価値観に基づいて意見(それは必ずしも「科学的意見」である必要はない)を述べられるような場が求められる.

なぜ,科学へ無関心でいるのか.その理由の根本は,おそらく科学が原理的に「辛い営み」であるからだと言える.その徹底した謙虚さゆえ,研究は苦難の道の連続であるし,ある意味,知識の積み上げ方としては圧倒的にコスパが悪い方法なのである.

エジソンは「天才とは,99%の努力と1%のひらめきである」と述べたと言われるが,その言葉を借りるならば「科学とは,99%の失敗と1%の成功の上に成り立つ知識の集積である」と言える.そのくらい徹底して謙虚なのである.その辛い営みから出てくる結果も「〜という場合については〜が言える可能性が高い」という程度の曖昧かつ抽象度の高いものであり,いわゆるビジネス書とか自己啓発本とか言われる類のものの方が単純明快であるし,自分の腰を据えやすいのは,もはやしようがないとしか言えない.

先般の参議院選挙でも投票率の低さが取りざたされたが,この投票率の低さも案外「科学への無関心」と関わっているのかもしれない.辛い営みである上に「神々の悪戯」に見える科学は,一般からすると「聖域」であり「神でない自分は立ち入れない」と考える思考に至るのは,想像に難くない.政治も科学も「専門家たちの悪戯」として捉えられ,関心が薄くなっているのではないだろうか.

 

 

以上,科学と社会を取り巻く問題についてまとめてきたが,私は,こういった問題意識の中で「対話デザイン」*11という方法論に注目して,いくつかの実践を作りつつその探究を試みている.以下では,そのコンセプト部分について概説する.UTaTanéのwebページ(https://utatane.github.io)に載せた「テーマ」や既にだいぶ古くなっているが昨年駒場祭時点での資料(http://mayfes2018-utatane.com/docs/UTaTane_outline.pdf)も私が書いたものなので参考にして欲しい.

1. 対話デザインとは何か

対話デザインの根本思想:聞き手の哲学

対話デザインの根本思想は,ごく簡単で「相手のことを理解した上でこちらもコミュニケーションを取ろう」という話である.それができるための手法として,本来の意味でのコミュニケーションを引き出す展示デザインのあり方を探究している.私はこれを「聞き手の哲学」とも呼んでいる.ここでいう「相手」とは,「普段科学や学問に触れていない非科学者・非専門家」のことを指す.彼ら/彼女らを理解するためにはどうすれば良いだろうか.

一つは,彼ら/彼女らのフィールドに行き,あるいはそのフィールドを擬似的に作って,そこで議論を始めてみるというという方法が考えられる.自分たちのフィールドで偉そうに「科学ってすごいんだぞ」と語っても,「はあ,そうですか」と結局対岸の火事で終わってしまう.自分たちが科学をつくる当事者の一人であり,そこに参画できる環境を作るには,まず,相手のフィールドで科学がどう使えるか,どういうふうな見方になるか,というのを示すところから始めねばならない.

生活知への配慮

そのフィールドに行った時に何を気をつければ良いかというと,私の言葉*12でいう「生活知への配慮」である.生活知とは,自分自身の日常や普段のフィールドで経験的に得ている知識や価値観のことを指す.私がよく例に出すのは,ハイン『博物館で学ぶ』*13にもある「鍛冶屋」の例である.鍛冶屋の親父は,物理学者のように黒体放射の式(プランク公式)を理解してはいない.けれども「鉄の色と温度の関係」を経験的に理解しており,温度予測の精度だけで言えば,物理学者がパッと見て答えるよりも精度が良いこともままあるだろう.こういった,「人々が普段生活をしている中で得ている知識や知見」を「生活知」と呼び,彼ら/彼女らの生活知を過小評価しないよう配慮をしていくことが,対話デザインに基づくSCの上で必要になると考えている.この「相手のフィールドを擬似的に作る」ことと「生活知への配慮」は,後述の2018年度の「未来の生活」に関する実践でも,2019年度の「つくる」に関する実践でも積極的に取り入れている.

受容の環境づくり

さらに,神々の悪戯の聖域としての科学を脱却するために,「自分の意見が科学側にも受容されうる」環境を作る必要がある.すなわち,自分の「生活知」は過小評価されておらず,そこに基づいた意見や議論・話を科学者/専門家にぶつけても怒られないし,受け止めてもらえる,というような環境づくりである.これは問題点で指摘した(5)の無関心層の増加に大きく関わるが,その背後には「自身の無力感」があると考えており,そこをなくして,「自分自身がcommitしても大丈夫なんだ」という場を作っていくことが,科学コミュニケーションをする上での前提になるのではないかと考えている.これは特に今年の「つくる」に関する実践で主題的に取り上げている. 

岸田が『科学コミュニケーション』で言っている「共感・共有のコミュニケーション」にも近いと考えているこう言った話は,これだけ聞くと,まあごく当たり前のことである.しかし,ごく当たり前のことを徹底的にやるのが一番難しいとは,かつて松下幸之助が経営論を語る中で述べたという言葉である.事実,私を含めUTaTanéのメンバーとともに作っている実践は,私が前編(https://yuuki-philosophia.hatenablog.com/entry/2019/08/03/231413)で紹介した数多くの実践の中でも,対象層を広く取れ,なおかつ満足度の高い企画に仕上がっていると思われ,需要もかなりあるように感じている*14

 

2. なぜ対話デザインなのか?

稚拙な文章で申し訳ないと思いつつ,対話デザインの概略を掴んでいただけたと信じたいが,そもそもなぜ「対話」(参加)である必要があるのか.そこを,従来多くのSCでなされてきた啓蒙的な構図でのものと比較検討をしつつ見ていこうと思う.

下図に*15,ストックルマイヤーらが『現代の事例から学ぶサイエンスコミュニケーション』 *16のなかでSCの類型として挙げている,「啓蒙ー対話ー参加」の分類に基づき,それぞれの特徴を私なりにまとめたものを示す.以下,この図を適宜参照しながら「対話デザイン」の位置付けについて述べていくことにする.

啓蒙と対話の構図:一方通行から相互通行へ

啓蒙とは,ここでは一方的に科学の情報や科学技術に関連したニュースを流していくことを指す.もちろん啓蒙主義的でないニュースや情報番組も少ないながら存在しているだろうが,その一方向性は「滝行」としての問題を抱える.すなわち,相手のことをよく理解せず一律大量に情報を送ってしまうことは「知識が滝のように降ってくる」だけで,結局自分の知識とうまく結びつかず,一時のコンテンツ消費に陥ってしまう危険性が高いという意味である.例えば,大学の退屈な授業を思い出してほしい.おそらく,自分の興味や関心とうまく結びつかず,ただ一方的に情報が流し込まれていき,某お笑い芸人のネタで言えば「右から左に受け流す」だけで終わってしまうのである.

この原因は,私自身はやはり「生活知への配慮」が欠けていることにあると考えている.相手が何を知っているかも知らずに,一方的に「これ,面白いよね!」と押し付けがましく知識を投げ続けても,もちろん届く人には届くだろうが,私が本来届いて欲しいと考える人々にはおそらく何も届かずに,何も貼りつかずに終わってしまう.一方向のコミュニケーションに終始し,「蒙きを啓く」という字面通り,相手を無知蒙昧だとしか考えていないコミュニケーションでは,本来の意味での「コミュニケーション」は実現し得ない*17

 もちろん,マスメディアのように国民全体に一律に大量の情報を提供することも意義があることであるし,特に比較的小規模なサイエンスコミュニケーションにおいて同様の手法を使うことは得策ではないと思うが.

対話から参加へ:体験(共時)から経験(通時)への昇華

「対話の構造」は中段の画像に示した通りであり,互いの知識が繋げられそうな部分(接触部)にお互いの知識を投げ合っていくような構図であると考えている.「生活知」の配慮と「受容」によって,本来の意味でのコミュニケーションが取りやすくなった状況である.

しかし,単なる対話も対話で,自己満足や一時の享楽に陥る危険をはらんでいる.それは,その対話が一時の体験=その場での議論にとどまり,そこから先の考えや価値観になんら影響をもたらさない可能性である.井戸端会議も「対話」ではあるだろうが,本来的に目指すべき対話とは違うものを感じるが,それも「一時の体験」にとどまっているか「その後につながるか」の違いで説明できるだろう.

私は,言語学者ソシュールが言語の分析を「時間的・歴史的変化を考慮するか否か」という意味で用いた「共時」と「通時」の言葉を援用して,対話の構造を体験(共時),本来目指すべき対話(「参加」と呼ぶ)を経験(通時)と呼んでいる*18.私の中でこの区別はそこまで難しいものではなく,「その後の価値観や考えに影響を及ぼしたか否か」で区別している.つまり,「対話」では一時的に科学の考えを知ったり,自分の考えを述べたりすることはできるが,例えば家に帰って,その日の考えを反芻したり,反復したり,その後,家族でもう一度議論が生まれるなどといった「経験」への昇華が出来ていない.その反芻や反復,追加の議論が自然と生まれていくようなデザインを「経験(通時)への昇華」と呼び,「参加」と呼んでいる*19

この「経験(通時)に昇華出来るような,科学や学問を題材とした対話デザイン」が私自身が目指す,サイエンスコミュニケーションや学問のコミュニケーションのあり方である.

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啓蒙から対話,対話から参加へ
「参加の構造」をいかにして作るか

では,この「参加の構造」をどう作っていくか.私自身,未だに掴みきれていない部分はあるが,基本はやはり「生活知への配慮」と「受容できる場の確保」にあると考えている.対話でも同様のことは考慮していたが,参加の構造に持っていくには,より深いレベルでの考察やデザインが必要になる.生活知は表面に見えている(観察できる)ものだけではなく,その人が生きてきた歴史・文化的背景をうまく引き出し,価値観を可視化できるようなきっかけが必要になってくるだろう.この辺りは実践ベースで考察を進めているので,実践例を述べる際に改めて考えてみることとする.

 

科学教育と非科学者へのSC : その役割の違い

ストックルマイヤーらが『現代の事例から学ぶサイエンスコミュニケーション』 *20のなかでSCの類型として挙げている,「啓蒙ー対話ー参加」の分類は興味深いが,もう一つ「何を求めて科学コミュニケーションをするか」という観点で分類を試みよう.私は,

  • 科学者養成:将来科学者になるだろう子供たちに向けて,「科学の面白さ」や「科学の考え方」を伝える方向性
  • 非科学者/非専門家への科学:科学やある分野に触れていない非専門家・非科学者に,「科学との関わり方」や「科学の魅力」を伝える方向性

の大きく2種類に分類して,UTaTanéの現状の活動を後者に位置付けている*21.多くのメディアやSC団体が,前者の方向性として「科学って面白い!」「楽しい実験ができる」という議論をしているが,そもそも後者の議論がかなりの部分で欠けているのではないだろうか?

つまり,「科学を専門としない人々に対して,科学者として科学の何を伝えれば良いか」という問いかけである.もちろん科学予算の獲得のために「科学技術がいかにすごいか」をアピールすることは大事であるし,多くの科学者がそこの部分は頑張りつつあるのだろうが,そもそも国の機関自体が科学予算を漸減か据え置きという形にとどめている以上,「凄さ」のアピールは結局あまりうまくいっていないかもしれない.私自身は別のアプローチとして,「科学の当事者性=科学自体に非科学者にどう関わってもらうか」を議論し,その中で科学にお金を投じることにどの程度意味があるかを判断してもらいたいと考えている.

個人的な願望:「世界を見るメガネ」のシェアの実現とそこから創る新たな「メガネ」

このような議論をすると「先輩は,科学,面白くないんですか?」と聞かれることがたまにある.結論から言えば「科学は面白いし,科学的見方でモノを見る営みを(少なくとも他の多くの宗教や思想よりは)信頼している」という立場でいる.おそらく中高の部活で無心に化学薬品を入れた試験管を振り回した人間でもあるから,人並み以上に科学愛は強いと思われるしかし,だからこそ「科学は刺さる人に刺されば良い」のではなく「無関心層や科学に馴染みのない人々にも刺さって欲しいし,その見方を知った上で判断して欲しい」という思いがあるという自己分析をしている.

私個人の願望としては,「科学のメガネを通して見た世界を知ってほしい」と思っているし,同時に「他のメガネ=他者の価値観を通して見た世界がどう見えるか」を観察して,その違いを楽しみつつ,そこから新しい見え方が生まれないか,というのを期待している.昔はよくヘーゲル弁証法がこの議論をする上でわかりやすいから,よく「テーゼ」と「アンチテーゼ」を結んで新しい見え方を生み出す,というような話をしたが,今の私の思想は「新しい見え方がより良いものになるかはわからないが,互いの違いを認め,その上で新しい解釈や見方を生み出していく」という良し悪しの価値基準を無くした上での(浅薄な理解であれば,ポスト構造主義や物語哲学的な思想に近い)共創をしたいのだろう,という立場にある*22

私は,人並み以上には資格を持っているし,本も読むと思うが,それは全て「新しい世界を見たい」という相当強い好奇心によるものであり,活動を通じてそういった知見を多数の人々から引き出すデザインができれば,個人的には大変嬉しいのである.(あくまで個人的に嬉しいだけであるが)

 

 

さて,ここまでで抽象的な議論を閉じて,いくつか実践例を紹介していく.その中で何がやりたいのか,というのを皆さんにも擬似体験していただきつつ,ご自身の今までの考えや知識と照らし合わせながら,実践を吟味していただければと思う.

また,外部向けに作成している報告書をドライブにおいておいたので,そちらにより詳細な成果と課題などについて述べているので,こちらも参照してほしい(https://drive.google.com/open?id=1MIagmdgzTCbECQTvUriNCNqItqZLCXM1

3. 実践例(1) 2018学園祭「変わる世界、変わらない私〜20年後の未来を描く〜」

 

2018年度は「変わる世界、変わらない私〜20年後の未来を描く」として,「未来の生活における科学技術の活用の可能性」をテーマに展示を行った.

研究室や企業が展示する形はどうしても「科学や技術の凄さ」を推してしまう節があるため,それを生活に落とし込んだときに何が変わるかを見せることで,科学や技術への理解増進と生活知に基づく未来の生活を変えるアイデアを科学側に取り込みたいという狙いである.

五月祭・Techno Edgeは「鉄道・公園・家・学校」,駒場祭は「キッチン・ダイニング・リビング・書斎」を題材に,それぞれ非専門家の身近にある生活空間を丸ごと擬似再現することで,来場者がアットホームな空間の中で気軽に(畏まらずに)アイデアを考えられるような工夫をした.

さらに,試作品を展示したり,技術を俯瞰するカードゲームを用意したりして,実際に体験する中で未来の生活がどうなるかについて自分自身の生活と照らし合わせて考えることができ,既有知識を刺激する工夫を行った.

 

結果として,「子どもー大人」や「専門家ー非専門家」の壁を感じることなく,スタッフと来場者,来場者同士が対話できる場を提供することができた.また,展示のアップグレードを行った駒場祭では,保育士の方や自閉症援助の方から,自分自身の普段の仕事の悩みの中で生じたアイデアを引き出すことに成功し,そこでさらにアイデアの深化もできた.また,私たちがデザインしたゲームを通じて意気投合したエンジニアや家族づれが,来場者同士で「ガチ議論」を始める場面もあり,「生活知に基づくアイデア共創」に一定の成果を上げることができたと考えている.

http://mayfes2018-utatane.com/TechnoEdge2018.html

http://mayfes2018-utatane.com/KomabaFes2018.html

 

 

 

4. 実践例(2) 2019五月祭「『つくる』ってなんだろう?〜How Do YOU Create?〜」

2019年度は「つくる」をテーマに展示を行なっている.創造性やクリエイティビティといったワードや,2020年度から施行される新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」といったところに,「共創」「主体」「創造性」といったワードが数多く踊るが,そもそも「何を作ったら創造性豊かなの?」とか「主体的な学びって何?」といった疑問を考えるべく,より学際的でアクティブな展示デザインを試みた.

五月祭では,「色・物語・一人・問い」という4つのテーマで「つくるとは何か?」を考えた.詳細は下記に記載したので眺めてみてほしい.

https://utatane.github.io/

http://mayfes2018-utatane.com/docs/2019-MF-Concept.pdf

今年の展示は,カオスかつアクティブ性が高く,多くの企画が「講演・来場者に伝える」という展示を実施する中,UTaTanéの企画では,来た瞬間から「はい,とりあえずつくりながら考えてみよう!」という投げかけをして,来場者自身が表現活動を試みるというかなり新しい試みを実践してみた.

結果,数多くの展示が存在する中で30分から長い人だと2時間以上展示内で様々な創作活動を試み,自分自身で考えを深めていくような状況が見られた.また印象的だったのは,幼稚園くらいのお子さんの横で高齢者の方がいて,同じように「色を作る」展示に参加していた場面で,対象層がほぼ限定されない形で,アクティブなコミュニケーションを促すことができたと考えている.また,昨年よりも「受容の場」を作ることを意識してやっていたことで,それをどうやってつくっていくかの方法論の一部を獲得できたように思う*23

展示を通じてアクティブな活動を促す仕組みはいくつか見出せたが,そこをどう科学や学問を伝える部分に応用するか*24駒場祭に向けての課題だといえる.

 

 

 

5. 課題と今後の展開

現状の課題としては,「参加の構造」がまだ作りきれていない部分にある.2018年の駒場祭が「科学技術の展示」としては一番参加の形に近く,生活知に基づくアイデア共創を行うことに成功したが,2019年の「つくる」という学際的テーマを扱う展示では,科学の方法論やリテラシーの部分,疑似科学への対処など,より広範な部分にアプローチをかけていきたいと考えている.

また,団体設立2年目にして,ようやく駒場祭の学術企画採択や,サイエンス・アゴラの採択など,「学術を伝える場としての対話デザイン」というやり方が認められつつあるように感じるので,サイエンスコミュニケーションの場に,私やUTaTanéメンバーのデザインを発信していきたいと考えている.

また,その他メディアへの展開として,おそらく近日中に「冬コミ出展(応募)」の話を告知すると思う.冬コミに出すとして,私たちが何ができるか,そこらへんを今詰めてみているところである.

同時に,地理関連の人間が多くなってきたので,そちらでも一つ何かコンテンツを作ってみることを考えており,徐々に盛り上がりを見せてきた次第である.

おわりに:Science Communicationの本来の姿とは?

コミュニケーション,Communicationの原義は,ラテン語のCommunisという単語から来ているという.この単語は「ともに」「分け合う」というようなものを持ち,現在のような矢印のイメージがついたのは,おそらく戦後の情報通信技術の発達によって,「通信」の意味でCommunicationが使われるようになってからであろうと考えられる.それまでは「同じ釜の飯を食う」というように,情報を一緒に分け合い,ともに考え,吸収し,次へ進んでいく,というような意味だったと推察している.

さらに,Scienceもラテン語のscientiaから来ており,当時は知識全般を指したという.

サイエンスコミュニケーションの本来の姿はともに科学や学問という人類が積み上げてきた膨大な知識(Scientia)を分け合い(Communis),科学者はその分ける手伝いをしていく,というような形ではないだろうか

私自身がどこまでできるかはわからないし,そもそも科学や学問の膨大な知識を全て分け合うことなど到底不可能だとは思うのだが,本来の意味でのサイエンスコミュニケーションを,「対話デザイン」という手法を使って実現できるように,少しずつではあるが実践と経験と知識を積んでいこうと考えている.

 

追記

ここまで長く書いてきたが,言葉足らずな部分も多々あるように思うし,私自身が言語化しきれていない部分も多くあると思う.

また,私自身の活動ややりたいことに興味を持っていただけた方がいたら,UTaTané(https://utatane.github.io/)や私自身のTwitterhttps://twitter.com/aza_yuuki1021)に連絡をいただければ幸いである.

また,上記に書いたことは,私個人の見解であって,UTaTanéの中にはおそらく私自身と違った考えを持ちつつ一緒にやってくれている人も多数いると思われるので,その点は留意していただきたい.

*1:東大の藤垣先生の『科学技術社会論の技法』https://www.amazon.co.jp/dp/4130032046や松本『科学技術社会学の理論』https://www.amazon.co.jp/dp/4833222604が詳しい

*2:私は前者の考えに近いが,ここで多くを語るのは野暮だろう.

*3:https://www.amazon.co.jp/dp/4480071075

*4:これは序章の話で,本編では「おひとりさま」「孤独」「一人」「独り」といったワードに結びつく様々な施設や文化を都市社会学の観点から論じている.

*5:ここでいう「圏外」とは,土井『キャラ化する/される子どもたち』 : https://www.amazon.co.jp/dp/4000094599 に登場した(?)意味で用いている

*6:飲茶『14歳からの哲学入門』https://www.amazon.co.jp/dp/4576151142に簡潔かつ分かりやすく解説されている

*7:非常にざっくりとした議論なので,有識者は怒らないでいただきたい...

*8:https://twitter.com/aza_yuuki1021/status/1138108830934376448

*9:池内『疑似科学入門』https://www.amazon.co.jp/dp/4004311314 と伊勢田『疑似科学と科学の哲学』https://www.amazon.co.jp/dp/4815804532 は疑似科学と科学の違い,それらの類型を分類して議論を展開している良書である.

*10:ある意味では,このあり方が「科学原理主義」なのかもしれない

*11:言葉自体は自己流であるが,色々なところで同じような話は別の言葉でされるかもしれない.

*12:博物館教育学・博物館展示論の本で出てきたと思うがそのままの言葉かは定かではない

*13:https://www.amazon.co.jp/dp/4886215270

*14:そもそもその声や需要を感じなかったら,昨年五月祭時点で団体を閉じていたはずなので

*15:あくまで私目線であることを留意していただきつつ

*16:https://www.amazon.co.jp/dp/4766422031

*17:ここら辺の議論は,博物館教育学の「欠如モデルー文脈モデル」という話に影響を受けている.詳細はそちらを参照して欲しい.

*18:このあたりの議論は,野家『物語の哲学』が(SCに直接的に関係する話ではないが)より解像度高く綿密に行なっていたと思う.英語ではどちらもexperienceだが,日本語は「体験」と「経験」という二つの語彙を持つ点で興味深い

*19:「対話デザイン」といっているが,本来の意味で私が目指しているのは「科学や学問への参加のデザイン」である.ただ,参加の意味が取りづらいので,広い意味での「対話」デザインとして言葉をまとめている.

*20:https://www.amazon.co.jp/dp/4766422031

*21:これはサークルの後輩と議論をする中で生まれた分類であり,その後輩は前者の科学者養成の方に興味を持ち活動を続けている.

*22:少し補足をすれば,ヘーゲル弁証法では,「テーゼ」と「アンチテーゼ」が結びついて「ジンテーゼ」に昇華され,その二項対立と昇華の繰り返しが世界を完成に導く,というような思想だと理解しているが,私はその昇華の繰り返しが世界を完成に導くとは到底思えないし,昇華をすることの意義は,多数存在する世界の見え方のメガネの種類を一つずつ増やしていくような程度のものであると考えている

*23:オリジナリティを担保でき,自分がつくっても自分のcontributionが存在しそう,と思ってもらうことが「受容の場」を作る鍵の一つであったように思う

*24:色・物語などの展示では,認知科学や文学あたりの知識を一部伝達することはやったが,「科学・学問を伝える」という意味ではかなり限定的であった