晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

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読書メモ:湊かなえ『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』

湊かなえの作風:「一人称の語り/騙り」

湊かなえの作品は,大学1年の時に駒場の生協でイヤミスの代表格とされる『告白』を買って以来,その描写の独特さに惹かれる部分があった。彼女の作風が,他の作家と一線を画すのは、徹底して「一人称の語り/騙り」を描くところにある。普通の小説は,ナレーターが存在して,その部外者的な語り手に事実描写や風景描写を語らせることが多い。例えば,

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。

夏目漱石三四郎』一,冒頭)

じいさんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないとみえて、はじめのうちはただはいはいと返事だけしていたが、旅順以後急に同情を催して、それは大いに気の毒だと言いだした。

(同作,一)

というように,「女が、隣のじいさんと話し始めた」という事実が,その前にカメラが設置されているように描写されていく。あるいは「爺さんが玩具に興味がない」という解釈が,三人称の語りによって「興味がないと見える」という形で描かれる。

だが,湊かなえの小説は,徹底してその「カメラ・ナレーター=第三者的視点」の存在を拒否する。

有紗のことを、ですか?解りました。

有紗は6歳下の妹です。仲の良い姉妹だったこと問われると、どう返していいのかよく解りません。もう少し歳が近ければ、一緒に遊んだり、逆に、喧嘩をしたりしていたのでしょうが、...

湊かなえ『マイディアレスト』冒頭)

話し手が有紗=登場人物の一人,聞き手が調書を取る刑事=物語内の人物,いずれも物語内に実在する人物の語りとして,小説が展開していく。初期作である『告白』『贖罪』『少女』*1イヤミスと,後で紹介する『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』の連作などとを比べると,その作品の「ドロドロさ」が歳を経るごとにだいぶ穏やかになっている印象だが,彼女は一貫して「一人称語り」を徹底させている。

手法は多岐にわたり,私が把握しているだけでも,

・独白,独り言(『告白』・『少女』・『ポイズンドーター』etc.)

・対話,取調べなど(『贖罪』,『白ゆき姫殺人事件』,『Nのために』etc.)

・書簡,日記・手記(『往復書簡』,『山女日記』etc.)

・その他(『物語のおわり』*2,『夜行観覧車*3

など,様々な手法に挑戦しているとお見受けする。

この一人称の語りの最大の特徴は,我々が日常,会話している中でも起こる「都合の悪いことを嘘や黙秘で隠す」という「騙り」の描写にある。それを私は「一人称の語り/騙り」*4と呼んでいる。彼女の作品は,この描き方が恐ろしくリアルなのだ。登場人物の設定のリアリティさもあり,その人物から間近で語られるような体験が得られるが,その語りは決して全てが本当のことを言っているわけではない。叙述トリックものの作品は多く見かけるが,彼女はミステリーのトリック以上に日常に潜むものとして,克明に描き出している*5

 

『ポイズンドーター・ホーリーマザー』(光文社文庫

最近,『ポイズンドーター・ホーリーマザー』という短編集が文庫化された(https://www.amazon.co.jp/dp/4334776965/)。計6本の短編が収められている。そ,短編ごとに「語り手」と「敵役」が登場し,語り手の口から,いかに敵役なのかが語られるのだが,基本的に「語り手は騙り手」であるし,湊かなえの描写が「いや,それはさすがに思い込みでは?」みたいな書き方をしてくれるので,それがより浮き立っている。つまり,池井戸潤半沢直樹シリーズとか下町ロケットシリーズのような,あるいは,ドクターXや大河ドラマのような「勧善懲悪型」では決してない。「誰も悪くないはずなのに,すれ違いから悲劇に向かう」ことが全てに共通して描かれているように思う*6

全部を書いていると,いつ書き終わるかわからないので,ひとまず私自身が一番興味を持った『ポイズンドーター』『ホーリーマザー』の連作についてレビューをしてみる。文庫の題名から読める通り,この作品は1編でも成りたつが,2編が組まれることでより深みを増している。

ただ,他の作品について知りたい方もいると思うので,ごく短くレビューを書いてみると,

・『マイディアレスト』:「姉妹」の対照を「姉」視点で描く。姉妹の対立に「母娘」の対立が重層的に組まれ,最後は,今邑彩的なホラーミステリーの調子で幕を閉じる。

・『ベストフレンド』:作家同士の芥川賞/直木賞的な賞を巡る争いを,一人の作家の視点から描く。叙述トリック的なミステリー調の強い作品。

・『罪深き女』:思春期?の男女の対照を女性視点から描く。その中に「母娘」の対照も組まれた作品。『母性』『少女』『贖罪』など,思春期の女子中高生と,母親など大人の女性との対立が描かれる作品は多いが,その色が感じられる短編。

・『優しい人』:最初に殺人事件のあらましが提示され,いくつかの証言を追っていく形式。『白ゆき姫殺人事件』的な「騙りの証言」の叙述が垣間見える。

という感じだろうか。

 

『ポイズンドーター』・『ホーリーマザー』

**ミステリーではないので「ネタバレ」が致命的になることはないと思いますが,一部小説内の描写を使っているので,その点をご留意ください。

この作品は,弓香(『ポイズンドーター』)と,弓香の友人・理穂とその母(『ホーリーマザー』)の視点*7から,両者の親子関係を巡った語りが展開され,さらに弓香と理穂の友人関係への語りも絡めた形で描かれる。

『Nのために』などで見られる,一つの事件を色々な視点から眺めていく過程を描いているが,あの小説と大きく違うのは,良くも悪くもこの小説がミステリーでない点にある。すなわち,ほぼ確からしい「真相」が提示されない。

例えば,「弓香が母親から本を読むことを勧められる場面」を取り上げてみる。これは2つの小説内で少なくとも3箇所で言及されている。

1. 弓香の回想1,母との対話の場面

(漫画を読んでいた弓香に)「本を読んで感動したいなら,まずお父さんの部屋にあるのを全部読みなさい。...私が同じ立場なら,父親が読んだ本を貪るように読んで,自分の中に父と同じ感覚はありはしないかと想いを馳せるわ。...お父さんは本好きだったことは,なんども聞かせたはずなのに。どうして伝わっていないのかしら...。...」

「ごめんなさい...。」(p.204)

2. 弓香の回想2

それよりも気になったのは,家にある本に,ほとんど人に読まれた形跡が見当たらないことだった。折り目も汚れもない。それだけなら,大切に読まれたと解釈できるが,全集案内などのチラシが挟まったままというのはどういうことなのか。箱が色あせ,ビニルカバーがかたくなっているのは,年月が経過した証であり,読まれた形跡ではない。

もしや,これらの本はただの飾りとして購入されたのではないか。直接,あの人にそんなことを確認する勇気は持てず,遠回しに尋ねた。(p.211)

3. 理穂の義母の回想

...ご主人は国語の教師だったこと。弓香ちゃんが生まれた時に,ご主人は日本文学全集と世界文学全集を記念に買ったということ。ご主人の実家にはそれらが揃っていたのに,わざわざ新品を買ったのは,弓香ちゃんが読めるようになった時,真新しい気持ちで物語に触れて欲しいと思ったからだと,ご主人が弓香ちゃんの頭を撫でながら言っていたこと。(p.254)

 「弓香が父の本を勧められる」ことが,1.では弓香の母,2.ではそれに呼応する形で弓香,3.ではさらにそれに応じる形で理穂の義母を通じて,語られている。果たして,どれが事実(=実際にあったこと,あるいはその事柄を神の視点で記述したもの)なのかはわからない。あるいは,どれが事実かなど,この場面においてあまり意味をなさない。彼女らにとっては,真実(=事実の解釈を通じて得た「信念」)が存在するのみである。弓香にとっては「真新しい本があった=全く使っていなかったのだろう」が真実であり,義母にとっては「真新しい本があった=父が娘を思って新品を購入した」が真実である。

象徴的なのが,3.で「ご主人が弓香ちゃんの頭を撫でながら言っていたこと。」と描かれている場面にある。この語りには,

・弓香は撫でられても,それを言われてもいない。「子煩悩である父と母」を演出するための誇張。

・弓香はそれに類する場面を体験しているが,母の誇張が含まれ,後半部分の「新品を買った理由」の場面は,説明が不足していた。

・弓香は実際に撫でられていた。しかし,弓香は父の発言を記憶に留めていなかった。

・弓香は実際に撫でられていた。しかし,母の支配を嫌った弓香は,母との対立の中で母が嘘をついているとの疑念に囚われ,「真新しい=本を読んでいない」という解釈に至った。

と,いくつもの解釈を加えることができる。どれも真実でありうるが,どれが事実かは読者には語られない。

この本の題名の「ポイズンドーター」「ホーリーマザー」は,「モンスターペアレント」と類似の系列で語られる「毒親」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%92%E8%A6%AA)を「毒娘」と「聖母」にあてて,各々の物語を描いたのだろうが,果たして,彼女らは「毒」を持つのか,という疑問がこの小説を通じて滲みだされる。各々の視点から「毒親」あるいは「聖母」であることが描かれるが,同じ事実が二つの解釈を持つことによって生じていることが描き出されている。

湊かなえは,「母娘関係」の問題から「友人関係」,「家庭関係」の問題にまで重層的に組み込むところにも文才を発揮しているが,いずれも「解釈によるすれ違い」によって悲劇が生じることが,人間味あふれる人物たちに乗せて鋭く描き出している。ここ最近の彼女の作風は,初期三部作の「イヤミス」の勢いよりも,むしろ「誰も悪くないのに悲劇/すれ違いが起こる」というある種の不条理を描くところに「イヤミス」さを転換している。そして,『告白』のインパクトに比べ,些か見劣りする場面が多かったが,本作は,いよいよその方向で面白い小説を描く端緒を見ることができる。

今年に入って,今邑彩村田沙耶香とホラーとシュールを描く女流作家に出会ってきたが,湊かなえは,湊ワールドを拡大させつつ,独自の世界観・小説観を追求しているように感じる。

 

真実と解釈をめぐるオセロゲーム

湊かなえが問うた「解釈」の問題は,私自身が様々な場面で関心を持っている話題である。作中に「人生オセロ」という番組が登場し,ゲストの知人の「白い面と黒い面」を描く様子が記されるが,そもそも現実世界の情報のやり取りも,このオセロゲームに近いのではないだろうか。「真実と解釈をめぐるオセロゲーム」とでも言えるだろうか。

つまり,ある事実に対して「白」を信じる人もいるが,「黒」を信じる人もいる。そして「白」を信じる人にとっては,白が真実であり,「黒」を信じる人にとっては,黒が真実となる。「事実自体が解釈なしには存在し得ない」*8とすら言える。そもそも,神の視点からの一切中立の絶対的観察はこの世には存在しない。あるのは,ただ人間同士が事実を解釈し,それを発信し合うSNSやニュース,メディアがあるのみだ。

最近のフェイクニュースも,一部は明らかに「反証」ができるものであることがあるが,そこそこの割合で「解釈の違い」により生じるものがある。あるいは,SNSの炎上の原因も,その「解釈のすれ違い」に一つの原因を求めることはできるだろう。

日頃の人間関係においてもこの「解釈のすれ違い」は,往々にして生じる。ちょうど先日「なぜ人は悪口を言うのか?」という話に対して,「それは人に期待しているからだ」という解釈を試みた。つまり「他人に『こうあってほしい』と期待するが,その通りに行動しない」ことに対して悪口が発生するのであり,そもそも「相手は自分の思い通りにならない」という前提で,あるいは「悪口の発生原因は,相手そのものより相手と自分をつなぐ環境/空気の間に解釈が存在するから」と考えれば,いわゆる悪口の大半は防げるのではないだろうか*9アドラー心理学が一世を風靡したが,今の私が啓発本的なものを書くのなら(恐ろしく「啓発」が嫌いなので,書かないと思うけれど)さながら「空気の心理学」とでもいう,その「解釈のすれ違い」の問題を取り上げることになるだろう。

あるいは「科学」についても,科学哲学によって似た文脈で語られる。科学は,「真実=信仰であり,事実など存在しないから追い求めても無駄である」とするニヒリズムに,限りなく客観的,中立的な真実を導き出すため,その手続きをもって,他の宗教や信仰とは一線を画している。仮説演繹(ハーシェル)あるいは反証可能性ポパー)的手続きは,科学が科学たり得る所以を求めた一つの解釈であるが,疑似科学や非科学に科学がどのように対処・対応し,科学者やサイエンスコミュニケーターがどのように発信すべきか,その発信や対処・対応にもすべからく「解釈」が入るので,科学の科学性の担保のために,その方法論を追求していく必要はあるだろう。

 

おわりに

湊かなえは,自身の「一人称語り/騙り」の得意技を使い,その神の視点の排除をした先に見える真実の折り重なりを描き出そうとしている。『白ゆき姫殺人事件』は,SNSの脆さを取り上げ,その「解釈」があらぬ方向に爆発していく様を描き出し,『Nのために』は,皆誰かのためにその場に存在したが,各々の思いが恐ろしくすれ違っている様を描き出した。

彼女の「一人称視点」により描き出される独特な世界観,恐らくハマる人はめちゃめちゃハマると思うので,湊作品を読まれたことがない方は,ぜひ一読いただきたい。本作や,『Nのために』『物語のおわり』あたりは入りやすい作品だと思う。

私自身も,一ファンとして,その独特な世界観を追い続けたい。

 

*1:湊かなえの「初期三部作」と勝手に呼ばせていただいている

*2:登場人物たちが,一つの物語を思い思いの感想を述べながら,バトンリレーのようにその原稿を順に手渡していく。作中作の読み方を通じて人物像を描き出そうとしている。

*3:珍しく三人称的なカメラが想定され得る作品だが,その語りの随所に一人称的な騙りを織り交ぜる技巧が凝らされている。

*4:高校時代,何かの作品を読んだ時に,現代文の教員が「語りは騙り」と書いたところにアイデアの端を発する。確か,同じく「余」の一人称語りで展開する森鴎外の『舞姫』だったように思う。

*5:彼女の作品は,その多くがドラマ化されているが,そもそも彼女の作品自体が「カメラ」の存在を拒否するので,カメラが否応なく入り込む映像としては作りにくいだろうし,原作ファンとしては,そのドラマが彼女の作品の魅力が引き出せているのか些か疑問がある。

*6:勧善懲悪型の方が構図としてわかりやすいし,ある種カッコ良いからアイドル化されやすいのだが,彼女の小説には「絶対的に悪い人」も「絶対的に良い人」も出てこない。おそらく小説を読んだ後に,ある人物に共感し,別の人物を貶すような感想を持つ人も多いだろうが,その人物がおそらく人によって違うのが面白い。

*7:特に『ホーリーマザー』の方は,かなり頻繁に語り手が入れ替わるので,母と娘両方から描かれることを念頭に置いて読むと読みやすいと思う。私も初見でなぜ「娘」と言っていた次のページで「義母」と言い出したのかと頭を抱えていた...。

*8:主に歴史学の文脈で語られているように思う。野家啓一『物語の哲学』の論説,あるいはソフトに取り上げた宮部みゆき『悲嘆の門』がある。

*9:ただ,過労死云々とか本当にどうしようもない話も時々聞くので,その場合は頼れなくなる精神状態になる前に全力で人を頼るか,法に頼るかをしてください...。幸い今の環境が過ごしやすいだけであって,私自身の将来を見ると,全く人ごとではないのだけれど...。