晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

日々を,感じ考えるままに書き留めてみる。一部noteに移動しています

対話デザインと科学コミュニケーション(1) 〜歴史編〜

はじめに

令和が始まり2ヶ月。平成最後の日に自分自身の研究・学業部分についてのセーブポイントをセットした*1が,副業として細々と考察・実践を続けている科学コミュニケーション(SC)やアカデミックコミュニケーション(AC)関連の備忘録をまだ書いていなかったので,この記事に載せておく。

ここにたどり着いた方が,SCにどういうイメージを持つかは図りかねるが,恐らく一番イメージがつきやすいのは,東大CAST(https://ut-cast.net/)や東工大ScienceTechno(https://tmp.t-scitech.net/)あるいは米村でんじろう先生のサイエンスショーをはじめとする「科学の面白さを多くの人に伝える」活動である。

次に,未来館を中心として科学館・研究所等に配置されたサイエンスコミュニケーターと呼ばれる職種で,「科学研究や技術を展示・実演を交えながら解説する」活動である。

私自身の現在の活動は,これらを横目にしつつ「対話デザイン/コミュニケーションデザインという,より参加型・双方向性の高いSC/ACデザインを目指して,実験的な展示をいくつか作っており,特に「科学者/学者でない人々(非科学者)に科学や学問へどうcommitしてもらうか?」ということを主眼においてやっている。

なぜ「対話デザインの探究」に至ったのか,そこに至る思考過程を残す意味で,前編(その1)は時系列に沿い,後編(その2)は現在の考えを概略する形で書いていくことにする。私自身の思考の転換点のきっかけとなった問いかけをいくつか置いておくので,ぜひ立ち止まって考えていただければ,この記事が皆様のSC関連の知見にうまく接着できるのではないかと思う。

 

私のSC史(1)・中高時代 〜化学部と科学コミュニケーション〜

中高時代は化学部に所属し,月水土の部活の日には化学実験とボードゲームに明け暮れる日々であった。しかし,年に1度の文化祭では,化学部展示は生物部・物理部無線班などと鍔迫り合いを演じる展示づくりに奔走する。私が部長代のときは様々気になっていた部分の改革を進め*2,40年来物理実験室・1教室*3で行っていた展示を,化学実験室・2教室使った規模の拡大を試み,強硬突破の形で実現にこぎつけた。私自身にとって,来場者に自分たちの活動をみせる展示を作る初めての展示である。

私のPCに部長時代に寄せた「はじめに」と題した文章が残っていたので,一部を抜き出してみる。

さて,皆さんは「化学」と聞いて,どういうイメージを持たれるでしょうか。...総じて,「化学」=「危険」「難解」というイメージが根強くあります。

では,その危険を冒し,難解な物質に立ち向かってまで化学を研究するのはなぜでしょう。答えは簡単,化学が面白いから,ただそれだけです。

...

今回の化学部の展示では「分かりやすさ,親しみやすさ」をモットーに,昨年から時間をかけて構想を練ってきました。「化学」=「危険」「難解」というイメージを完全に取り去って,「化学」は面白いものだということを伝えたいです。どうぞごゆっくりお楽しみください。もし,皆様が化学部の展示をご覧になって,少しでも「化学」に興味がわき,親しみを感じてくれるようになったのならば,こちらとしては嬉しい限りです。

...

<小学生の皆さんへ>

化学部の実験でも一番大事なのは「好奇心」これにつきます。僕たちの研究も「こんな薬を作ってみたい!」「きれいなガラスを作ってみたい!」というところから始まります。

皆さんにはまだまだ様々な道があり,何でもすることができると思います。受験勉強で忙しいかもしれませんが,「なんで空は青いんだろう?」「なんで砂糖は甘いんだろう?」こんな素朴な疑問を持ち続けて欲しいと思います。

(2012年度麻布学園 学園祭化学部展示 「はじめに」より)

高校生風情で大変偉そうに色々述べているわけだが,今見返して驚いたのは,高校時代からすでに「化学の面白さ」「好奇心」などのキーワードを導き出していたことである。この面白さを伝えるために,身近な実験や体験要素をふんだんに用意し,2教室展示を充実したものに仕上げたことを記憶している。

この活動は,教養学部時代のCASTの活動にも無意識のうちに活かされたのかもしれない。

 

私のSC史(2)・教養学部時代 〜東大CASTと「科学の面白さ」を伝える活動〜

教養学部時代は,主として東大CASTの活動に参加した。東大CAST(https://ut-cast.net/)は,「科学の面白さを多くの人に伝えたい」ということをモットーとし,小学校や科学館・公民館などで,実験教室やサイエンスショーを行う東大内の学生団体である。私は団体の副代表も務め,学園祭展示のブースや書店でのイベントを20程度企画・運営した。特に,数学・情報系など従来あまり扱われてこなかった実験・ゲームなどをデザインし,イベント内で取り入れたりもした。

この頃のモチベーションは「科学は面白い」ということを多くの人に知ってもらいたい,というものであり,子供たちの笑顔を見るのが楽しく,部室で実験開発や準備に明け暮れる日々であったことを記憶している。

 

SCへの問いかけ(1) ・「科学の面白さ」の布教は必要/重要なのか?

学部3年の冬学期に「科学哲学」(石原孝二先生)の授業を受講した。本郷がメインキャンパスとなった自分ではあるが,それは自分自身に生まれていた「自分の『科学の面白さを伝える』活動に果たしてどういう意義があるのか?」疑念を講義を通してどうしても解消したいという思いが募ったからである。*4

この授業における主題は「科学とは何か?」を探究する学問分野であり,古くはアリストテレスからデカルト・ベーコンらの哲学を経て,クーンのパラダイム論,ポパー反証可能性ラカトシュのリサーチプログラム,ラトゥールのアクターネットワークなどの科学哲学の議論をさらい,最後にリスクコミュニケーションなどを扱うかなり密度の濃い授業である。

この授業を通して,私自身はかなりの衝撃を受けた。というのも,中高以来「科学は面白い」という思いで展示やイベントをデザインしてきて,その根本には「科学を信じれば救われる」という「科学万能説/科学神話」的な考えがあったわけだが,授業を受ける中で科学は人類の営為であり,思考の一形態に過ぎないという相対化をすることで,私の中の「科学への憧れ」が音を立てて崩れ落ちたからである。

その中で,「科学の面白さ」を伝えること(語弊を恐れずにいえば「科学教の布教」)はそもそも必要/重要であるのか?という疑問がわいた。

この問いの私なりの回答は,後編の「対話デザインの概要(1)」で述べることにする。

 

SCへの問いかけ(2) ・SCの主体は誰であるか?

私自身がCASTや高校化学部を思い返すと,口癖のように「お子さんを前に,大人の方は後ろに」と言っていたのを思い出す。確かに「科学教育」という意味では子供が主体でしかるべきだが,本来の意味での科学コミュニケーションは,大人も対象にすべきではないだろうか。いや「科学へお金(税金)を使うことを推進したい」というアピールならば,むしろ大人を主体にすべきとすら言える。

確かに,大人をターゲットとした講演会・カフェ形式のイベントも多く存在するが,その場合は子供が爪弾きにされがちなため,小さな子供がいるご家族づれなどには少しハードルが高くなってしまうだろう。

学部3年あたりからの問題意識として,「子供から大人まで幅広く楽しめる/SCが可能なような展示デザイン・SCデザイン」というものがボヤッと浮かんでいた。

 

私のSC史(3)・学部・物工時代 〜工学博覧会と「人を魅せる」SCの可能性〜

統計力学の「ミクロとマクロをつなぐ」という発想とその美しさに魅せられ,工学部物理工学科への進学を選択したわけだが,東大では工学部物理工学科と計数工学科が応用物理系として,物理・情報・数学の教育において密な連携を取っている。さらに,東大の学園祭の一つである五月祭では,工学博覧会として合同で学科展示の出展を行なっている。

私は,この工学博覧会で副責任者・マネジメント班を務め,事務作業とともに展示全体の統括・新たな展示の考案を行なった。

マネジメント班では,例年単なる事務作業を請け負っていた体質を改め,「マネジメント班から新しい企画を提案しよう」という心意気を持ち,五月祭の半年前くらいから私に近しい学科メンバーと議論と画策を重ねていた。

特に,8教室の展示を有する中で最大の教室である「63教室」の活用法が議題に上がった。そこで「応物らしさ」を見せられる企画をマネジメント班主導で行えないか,ということだったが,そこで問題になるのは「そもそも応物らしさとは何か?」と「それを伝えるために何をすれば良いか?」の2点である。

皆さんの学科や所属の「らしさ」も,意外と言語化して伝えるのが難しいのではないだろうか。この時の私たちは,応物らしさを「基礎から応用につながる学科/社会につながる学科」と位置づけて*5展示づくりを行った。

特に,例年の「展示物+展示解説」の方式から,「人を魅せること」と「応物全体を俯瞰すること」を重視し,物工・計数の先生方や学生を呼んで行う座談会企画を前者に,63教室で物工・計数が入り乱れて,座談会をふくめ,講演やワークショップなど多様な企画を時間割で催す通称「63企画」を後者に位置づけた。

結果,B3-B4に加え院生の一部の方にも加わっていただき,スタッフ100名以上の協力を受けて,過去最大規模の展示を実現することができた。

Twitterで #工学博覧会2017というタグを検索していただければ,当時の様子が写真付きで垣間見えるが(https://twitter.com/hashtag/%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A2017?src=hash),例年よりもコンセプトを明確に打ち出したことが奏功してか,全体としてのまとまりが(少しばかり)増したように思う。

企画が無事終了したことへの安堵と,私の勝手な企画やアイデアに最後まで付き合ってくれた学科の先輩後輩同期の皆様の感謝の念に堪えない。*6

 

 

SCへの問いかけ(3) ・啓蒙型のSCへの疑問,科学とは何か?

サイエンスショーや講演会・研究室展示など,私の周りの科学コミュニケーションは,私(や複数の先人)の言葉で言えば「啓蒙型のSC」が大半を占めているように思う。ここで啓蒙型とは,「科学の面白さ」や「技術の凄さ」を伝えるために,様々な媒体を使って,一方的に情報発信をしていく,という形式を指す。

しかし,この啓蒙型の形式だと,どうしても私たちが生活の中で暗黙的・無意識的に取り入れていく「生活知」を過小評価してしまうことにつながりかねない。つまり「私/僕は科学のプロなのだから,この説明が正しい」というまさに「蒙きを啓く」ような調子で伝えてしまうと,次の2通りのパターンの反応が来ることが想定される。

一つは,「ああ,私は何も知らなかった。こんなに素晴らしいのか」という,「科学信仰/科学信奉」が考えられる。専門家から伝えられる科学的知識を盲目的に受け入れ,それを信じていくようなあり方である。恐らくこのような受け取り方をする層は,疑似科学的な話についても同様の反応を示し,さらに疑似科学的な話の方が単純明快でわかりやすいことが多いため,それとの区別がつかなくなると考えられる。要するに,科学の基本精神でもある「批判精神」が養われない。*7

もう一つは,「なんかすごそうだけど,何の役に立つのかわからない」というような,「無関心の再生産」である。この場合は,結局啓蒙的SCが一時のコンテンツ消費になり,対象者のその後に何ら影響を及ぼさない可能性が高い。

いずれにしろ啓蒙的な伝え方の場合,「面白い」「楽しい」というエンタメ的要素は伝わる一方で*8「科学自体への関心」をうまく引き出すことができず,「一時のコンテンツ消費」で終わる危険をはらんでいる。

では「科学自体への関心」をどのように引き出すか。確かにエンタメ的な伝え方もアリだろうが,先に申したように一時のコンテンツ消費になりかねない。私自身はそもそも「聞き手が何を知っているか」などの聞き手*9の理解が不足しているのではないかと考え,後述の「対話デザイン」の取り組みを続けている。つまり,SCの本質には「聞き手の哲学が必要である」という立場である。続きは後編で言語化できる範囲で書いていこうと思う。

 

さて,私たちが伝える科学とはそもそも何だろうか。ぜひ,みなさんも立ち止まって少し考えてみてほしい。

私自身は「科学とは,世界を解釈するものの見方の一つである」と考えている。古くギリシャの時代から科学は哲学として脈々と受け継がれてきたが,ものの見方が確立したのが「近代科学」といわれる時代である。そこでは仮説演繹的な推論と呼ばれる,「仮説を立てて,そこから現象を予測し,その仮説が正しいか否かをテストする」という多くの科学分野で取り入れられている方向性が定まった時代である。その「ものの見方」が現在で受け継がれ,各分野で様々な知見を生み出している。

科学も世界を解釈するものの見方の一つという意味では宗教であるが,多くの宗教を凌駕した普遍的な知識・技術を積み上げてきた背景には,その類い稀なる謙虚さと,科学内部に科学自体を自壊させる装置(「反証可能性」と呼ばれる)が存在したことによるだろう。多くの宗教では「教え」が絶対であり,基本的に更新されることはない。キリスト教も聖書が何百年と同じように信じられ続けている。すなわち,宗教は基本が「静的(static)」なのである。一方,科学はニュートン力学を包摂する形でアインシュタイン相対性理論が生まれたように,常に知識が更新され,技術が生み出されていく構造がある。「現状の理論は絶対ではなく,自壊されうる」という構造は,科学が「動的(dynamic)」であることを示し,それゆえ多くの知識を自然や産業の中で獲得し続けてきたのであろう。

このような思想から,私の科学コミュニケーションへの関心は,「ものの見方としての科学」を伝え,相手の見方もうまく引き出しつつ,互いに協力して何か新しいものを生み出していけないか,という部分にある。相手の見方を知れば,その見方に合わせてうまく科学でどう見えるか,科学で何ができるかを伝えることができるという思想である。

おそらくこの考え方は「科学の内容(コンテンツ)のすごさを伝える」ということを主軸に置く多くのSC団体とは違うが,私自身の考えを基にしたSCデザインの需要は後述のUTaTanéの活動実績の中にも見いだしつつあるので,細々と活動を続けている次第である。

私のSC史(4)・現在 〜UTaTanéと「対話デザイン」を目指すSC〜

こういった問題意識の中から,UTaTanéという団体を立ち上げ*10現在は「生活知と専門知をつなぐ対話デザイン」というをコンセプトを掲げて,実験的な展示やメディアへの展開・イベントやプロダクト制作を画策している。後編では,このUTaTanéで,私が何を考え,何をやっているか,その部分のセーブポイントを作ることを目指して記事を執筆してみようと思う。

 (後編につづく)

*1:https://yuuki-philosophia.hatenablog.com/entry/2019/04/30/172118

*2:部内で選択制の講義を取り入れ,科学館・工場見学を企画するなど,化学実験以外の部分の活動の強化を行うとともに,学園祭展示内部でも学園祭

*3:現校長が化学部部長だった時代に変わって以来だと聞いた

*4:科学哲学の授業での教科書は『科学哲学ーなぜ科学が哲学の問題になるのか』(https://www.amazon.co.jp/dp/439332322Xだった。かなり分厚く分量が多いが,興味のある方は読んでみると面白いと思う。

*5:といいつつも当時は,各所で企画が散発的に生まれたものをまとめ上げる形でコンセプトを設計するという,ボトムアップ的な企画づくり出会ったため,この言葉が確立されたのは五月祭2ヶ月前であった

*6:今でも流石にやりすぎたなあ,という反省をしています...笑

*7:「批判精神」をどの程度養うべきかは,UTaTané内部のSC関連の議論の際も議論の種になった。それは追って書くことにする。

*8:それはそれで大事だと思うのだが

*9:対話なので「聞き手」は常に入れ替わるから,この場合の言葉としてはふさわしくないかもしれない。要するに非科学者・非専門家といった「科学を伝える/科学が伝わる」側の人間のことである。

*10:元々は情報理工系の院生数名で「五月祭展示をやりたいね」という話から始まったのだが,初回の五月祭の反響が想像以上に大きく,しばらく活動・探究を続けるために団体を運営している。