晴耕雨読でPhilosphiaなスローライフを目指して

日々を,感じ考えるままに書き留めてみる。一部noteに移動しています

幼児向けアニソン傾聴のススメ(試論)

ドラえもんポケモンアンパンマンとの再会

先日,友人とカラオケに行った際,ふとしたきっかけでアニメソング(アニソン),それもドラえもんポケモンアンパンマンなど,子どもの頃によく見るようなアニメソングの掛け合いになった。カラオケに来た大人が,宇多田ヒカルのFirst Loveだとか,米津玄師のlemonを歌うことはあっても,アンパンマンのマーチめざせポケモンマスターといった曲を入れることは,よほどの物好きでもない限り歌わないだろう。

しかし,この歌詞を眺めていると,中々深いことを言っているのである。幼稚園生や小学生にこれを聴かせるのか,というくらいには。10年単位で聴いていない方も多いと思うが,ぜひ一度聴いてみて欲しい。何十年も世代を超えて語り継がれる国民的アニメは,やはりそれにふさわしい威風堂々たる国民的アニメソングが脇を固めていたようである。

これらアニソンが何をどう伝えようとしていたのか。以下,具体的に何曲か挙げてみながら,少しばかり私なりの考察を書き留めてみようと思う。

 

その1 『夢をかなえてドラえもん』(ドラえもん*1

ドラえもんの声優が,大山のぶ代から水田わさびへと変わった後のオープニング曲である。「こんなこといいな〜できたらいいな〜」という古いオープニング曲が馴染んでいた私は,水田わさびドラえもんとこのオープニングが少し違和感を持った子ども時代もあったが,今の子たちは,むしろ大山のぶ代ドラえもんを知らないと思うと,中々のジェネレーションギャップを感じる。

心の中 いつもいつも描いてる(描いてる)

夢を乗せた 自分だけの世界地図(タケコプター〜)

空を飛んで時間を越えて 遠い国でも

ドアを開けてほら行きたいよ 今すぐ(どこでもドア〜)

大人になったら忘れちゃうのかな

そんな時には思い出してみよう

「空を飛べるかな?」「昔の自分に会えるかな?」

子どもの頃は,できることできないこと関係なしに,色々と空想に浸ってはまさに「自分だけの世界地図」を描いていた。「世界地図」の部分を「学問/知識の地図」と読み換えるならば,彼らの中で描かれた素朴概念・経験知を指しているとも解釈できる。

もちろん,その「自分だけの世界地図」は科学的に間違っている場合もあり,それは教育の中で発見され,修正されていく。しかし,私たちは教育の成果によって,幸か不幸か「自分だけの世界地図」をあまりに失いすぎではないだろうか。後半の「大人になったら忘れちゃうのかな?」という言葉は,それをストレートに言い当てている。

「自分がこうありたい」「世界がこうあってほしい」という欲求は,得てして行動の原動力となることが多い。むしろ,教育として「自分だけの世界地図」をしっかり持たせるようなものは模索されえないのだろうか*2

やりたいこと 行きたい場所 見つけたら(見つけたら)

迷わないで 靴を履いて 出かけよう(タイムマシン〜)

大丈夫さ ひとりじゃない 僕がいるから

キラキラ輝く 宝物探そうよ(四次元ポケット〜)

道に迷っても泣かないでいいよ

秘密の道具で 助けてあげるよ

...(後略)

「カブトムシ,取りに行きたい!」「たくさん星が見えるところに行きたい!」

幼稚園や小学校低学年の子供達が,しきりに父や母の説得を試みる姿が容易に想像できる。歌詞の前半部は,やりたいことや行きたい場所が見つかったら,迷わず出かけようと,自分の好奇心やモチベーションを大切に,そしてそれをそのまま持って外に飛び出していってほしいというメッセージが伝わってくる。ラッセルの『幸福論』にも示された,「外への興味」が幸福の源泉であるとする幸福観にも近いのだろう。

日々の仕事や学業と人間関係の調整に忙殺され,3000円の虚無生産飲み会と気晴らし手段としての旅行やエンタメ施設訪問に支配される日常。「やりたいこと」「行きたい場所」すら段々と見出せなくなってくる大人社会に痛烈な皮肉を投げかけているようにすら感じる*3

さらに,後半部は『ドラえもん』全体の世界観も反映している。自分は,「君のすぐ隣にいて,困った時に助けてくれるロボット」だと。

そのドラえもんを頼りにしながら,好奇心を持って外に飛び出し,「宝物=自分が心から素敵だと思えるもの」を探してほしい。たとえその過程で「道に迷っても=何かうまくいかないことがあっても」,一人じゃない,助けてくれる人やロボットがいる。それを信じて前に進んでほしい。そんなメッセージを感じ取った*4

これは,次のポケモンの歌にもある「うまくいかない時は必ずある。だけどそこには,助けてくれる仲間たちがいる」とする人生観にも通ずる。大半の大人が失っている「好奇心で外に飛び出す精神」を是とし,そこを軸に人やロボットと協力しながら,夢をかなえていこうという哲学が見えてくるのである。

その2 『めざせポケモンマスター』(ポケットモンスター*5

この曲を聴いて育ったといっても過言ではない。ルビサファからダイパ世代であり,最近の話題にはついていけなくなってきたが,中学の定期試験の勉強を右手でして,左手でズイタウンの育て屋ロードを快走していた自分*6は,一時期本気でポケモンマスターを目指す気だったとすら思える。

この曲の歌詞では,いわゆるBメロ?にメッセージが込められているように感じる。

いつもいつでも うまくゆくなんて

保証はどこにも ないけど(そりゃそうじゃ)

いつでもいつも 本気で生きてる

こいつたちがいる

「こいつたち」が「本気で生きてる」という表現。感情にストレートに訴えてくる言葉である。ここでいう「こいつ」の指示対象は,ポケモンたちだけでなく,カスミやタケシ,そして旅路で出会う数多くの人々も入っているように思う。「頑張って」ではなく「本気で」と書いたところに作詞の妙を感じる。ここでいう「本気」には,「頑張る/頑張れない」という次元ではなく,「人間を含め全ての動物は,存在し生きていること,その時点で常に『本気』である」という,「懸命に生きている」その事実への畏敬の念が,何気なく感じ取れる。

昨日の敵は 今日の友って

古い言葉が あるけど(古いとはなんじゃ)

今日の友は 明日も友達

そうさ 永遠に

ワンピースの「仲間はみんな助ける」という発想や,試合の外では敵味方関係なく皆が友であるというラグビーの精神に通ずる部分がある。

ポケモンには,ご存知の通りロケット団という敵役がいるのだが,この敵役が悪役じみていないのである。あまりに行動が稚拙であるし,何しろ恐ろしく前向きである。池井戸潤が描く「勧善懲悪型」すなわち「極悪人に正義の鉄槌を下す」という形式では描かれていない。むしろ,見ている側は,彼らに「悪い奴らだけど,なんか憎めない」という印象を持つ。ドラえもんジャイアンスネ夫然り,アンパンマンばいきんまん然り,これは共通した印象である。

クラスの中にいる「ガキ大将」や「威張りっ子」,何かちょっと冷たい上司,世の中に「悪」とされる人々は,意外に多い*7。しかし,彼らの「悪」は,ジャイアンが映画だとのび太を助けるヒーローになるように,ロケット団がサトシたちのピンチにさりげなく手を差し伸べることがあるように,純粋な極悪非道ではないのである。自分たちの見方を変えれば,あるいは時と場合が変われば...。「悪」とし断罪しようとしているものが,相対的であるかもしれないという批判精神の醸成を訴えているのだろうか*8

そう考えると,『半沢直樹』『ドクターX』『ブラック・ペアン』など勧善懲悪の単純な構図よりも,より重層的な「悪と正義」の問いが,これらのアニメに描かれているのだろう。

夢はいつか 本当になるって

誰かが歌っていたけど

つぼみがいつか 花開くように

夢は 叶うもの

「つぼみがいつか花開くように 夢は叶うもの」

この表現が文学的で中々に趣深い。「つぼみ」と「花」という例えは,もしかしたら「水をあげねば枯れてしまう」という植物のメタファーから取ってきたのかもしれない。ドラえもんの楽曲が訴える「好奇心を元に外に出よう」という精神のように,「好奇心が枯れると花も夢も枯れる」ということを訴えたかったのだろうか*9

その3 『アンパンマンのマーチ』(アンパンマン*10

アンパンマン。顔があんパンで出来ていて,お腹が空いている子供達に自分の顔をちぎって食べさせてあげ,バイキンマンなどの悪者を「アンパンチ」と倒すヒーローである。この曲が「心肺蘇生法」における,心臓マッサージのリズムと一致することから,「AEDが来るまで,アンパンマンのマーチのリズムを刻みながら心マしろ」と言われ,その歌詞があまりに「生」を深く問うていることから,それは如何なものか,としばしばネタにされることもある。

やなせ氏自身も「アンパンマンに込められた哲学」を語っている*11。特に,同記事からの引用で学芸員倉持氏の解説を追っていくと,

(一般的なヒーローは)マント一つ汚さずに飛び去っていく。壊した街も,どうなったのかわからない。そういうヒーローって,本当の正義なんだろうか。本当にお腹が空いて困って,ひとりぼっちで寂しくてっていう人のところには,そういうヒーローは,なぜか現れない。

誰を一体助けているんだろう,そういう疑問があって,それでアンパンマンを思いつかれたんだろうと思います。

(中略)

お腹が空いた人にパンを,自分が食べたいけどそれをあげる。これは誰にでもできることだけど,自分が,本当にお腹が空いて死にそうになっているときに,果たして,それができるか。傷つかずして人を助けることはできない,そういうことを言いたかった。

 

と言いつつも,書いた手前として少しばかり楽曲に関する私論を試みる。

そうだ 嬉しいんだ

生きる 歓び

たとえ 胸の傷が痛んでも

「生きること」そのものの,これほどまでに直接的な肯定。これを幼児向けの楽曲の冒頭に持って来るのが,やなせ氏の

幼児用だというので,グレードをうんと落とそうという風に考えるんですね。...僕はそう要求されたんですけど,違うんですよ。全く違うんですよ。非常に不思議なことにね,幼児というのはですね,お話の,この本当の部分がね,なぜかわかってしまうの。

という話をありありと映し出している。「胸の傷が痛む」は,日々の生活の中での苦しみや悩みに一般化しても良いだろう。すなわち,「たとえ,色々辛く苦しいことがあっても,生きる,生きている歓びというのは,とてつもない奇跡であり,嬉しいことなのだ」というやなせ自身の人生の中での気づきを歌い出したのかもしれない。

何のために生まれて 何をして生きるのか

答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱い心 燃える

だから君はいくんだ 微笑んで

何が君の幸せ 何をして喜ぶ

わからないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を こぼさないで涙

だから君は 飛ぶんだ どこまでも

「何のために生まれて,何をして生きるのか」・「何が君の幸せ,何をして喜ぶ」

人生の究極的な問いは「私が何のために生まれたのか。私が何をして生きるのか。」と「私にとって,何が幸せなのか。何をして喜ぶことができるのか。」であることを,短く鮮やかに歌い上げる。それがわかることこそ,「生きる意味」であり「幸福」であるのではないかとすら訴えかけている。

一方で,やなせたかし氏は冷淡ではなかった。各々の後半部には,しっかり読むとそれぞれの問いを考える氏なりのヒントが提示されている。

まず,「生きる意味」に対しては,「今を生きる」ことが大切なのだと。「今,ここに存在している」という実存を肯定し,今まさにこの時を「生きる」必要があると。懸命に生きる中で,色々なことに対して熱い心が燃え,結果的に「何をして生きるのか」という将来が見えてくるのではないか,あるいは,「何のために生まれてきたのか」という過去が見えてくるのではないか。そう主張する。「今の自分を懸命に生きよ。さすれば未来の戸は開かれん。」というのが彼からのメッセージなのだろう。

次に,「幸せ」に対しては,夢を忘れるな,涙をこぼすなと。「夢を忘れるな」というのは先の「好奇心が夢を必ず掴む」という,ポケモンドラえもんに見られた哲学に通底する思想である。後半の「涙をこぼすな」が,一見すると,うまくいかないことはしばしばあるが生きよう,と,励ましの言葉をかけた前2つの楽曲と異なる。しかし,彼も「人生の中に辛さが存在する」ことは肯定しているだろう。それは彼の戦争体験がそうさせざるを得ないと考える。辛さは存在するが,涙は流してはならない。これを繋ぐのは「忍耐」「辛い状況をじっと耐え抜く」ことを訴えていると考えると納得がいく。つまり,「人生には辛い状況が,しばしば存在する。しかし,そこで涙を流して諦めるのではなく,じっと耐え忍び,夢を諦めるな。」と解釈してはどうだろう。さすれば,苦痛への忍耐と夢の追求を両立させた中で,「自分が何が幸せなのか」「自分が何をしたら喜べるのか」がわかるのではないか,と言いたいのではないだろうか。

 

アニメ世界から滲み出る人間の本性

ドラえもんアンパンマンは,心が幼い「子ども」がみるもの,大の「大人」はそんなものはさっさと卒業して月9だとか大河ドラマをみるべきだ,そういった固定観念同調圧力が吹き荒れている。しかし,一度立ち止まってドラえもんポケモンを見てみよう。単純明快な話の中に,明瞭なメッセージが組み込まれている。しかも,そのメッセージは決して「子ども」だけに向けたものではないはずだ。さらに興味深いのは,子ども向けとして作られている楽曲やアニメなので,言葉が非常に単純で,小難しいことを言わずに哲学的な問いやその指針を示しているところにある。

翻って現実を見ると,確かにそんなに単純ではないことがわかる。人間関係の中に悩みは尽きず,そこを描くのが写実的であるという意見は最もだし,私も子供向けアニメが理想化された部分は大いにあると思う。しかし,抽象芸術に与した画家*12が現実世界から本質的なエッセンスを抜き出し描いたように,藤子・F・不二雄やなせたかしも,「人間的な生き方」の本質を抽出して物語世界に乗せたのではないのだろうか。それが,ドラえもんの世界観であり,アンパンマンの世界観なのである。

数年前か,ふとしたきっかけで麻生太郎サブカルに関する国会答弁をYouTubeか何かで拝聴し,痛く感動したのを思い出す*13。曰く,「ポケモンは,言葉が通じなくともコミュニケーションができる文化を植えつけた。ドラえもん鉄腕アトムは,ロボットが人間が困った時に助けてくれる概念を植えつけた。ワンピースは,困った奴はみんな助けるという哲学がある。」と。

アニメの殿堂と呼ばれた国立メディア芸術センターは,麻生内閣の退陣と旧民主党政権の事業仕分けにより「要らない」とされ,夢物語に終わった。しかし,日本のアニメやマンガの文化は,純文学に勝るとも劣らない哲学と思想を持ち,さらにそれを伝える媒体としての有効性を持っている。果たして,これらの文化を伝える施設は「税金の無駄」なのであろうか。私はおよそ疑問を持たざるを得ない。

アニメの世界は,確かにかなり理想化されたものである。しかしそこに描かれた理想郷には,私たち大人が,日々の生活に忙殺され見失いがちな「人間本来の生き方やあり方」を見いだすことができるのではないだろうか。 

*1:夢をかなえてドラえもん - YouTube

*2:新指導要領の「知識活用」の本質の一つは,自分自身の価値観の中に知識や学問を落とし込んでいく作業にあると思っているので,その文脈で「自分だけの世界地図」を作れる試みができると面白いかもしれない。

*3:流石に言い過ぎかもしれないが,目をキラキラさせて日々を送る大人は,私の身近には,研究者の一部くらいしか見出せない...。

*4:ちなみにこれを書いている間,ドラえもんのこの歌を始終リピートしているので,書いている途中で耳を傾けると結構新しい解釈が思いつくのである。

*5:めざせポケモンマスター - YouTube

*6:ダイヤモンド・パールの育て屋があるズイタウンは,比較的長距離を上下キーの操作だけで駆け抜けられる道路が存在する。その前を快走し,ひたすら個体値の高い個体を厳選した日々が私にもあったという。

*7:村田沙耶香の『殺人出産』で描かれた「何となく殺したい人」がこの「悪」に対応するのだろうか

*8:ただ,いじめや種々のハラスメントのように,例え相手に承認欲求や拠のない事情があったとしても,「悪」として断罪すべき事象も多数あるのはまた事実である。ただ,ここ最近の「ハラスメント」の議論は,一部において過度になり,「悪」を過剰に作り出しているのではないかと思う節は個人的にあるが...。

*9:「好奇心が枯れると人間が枯れる」という話を聞くと,ドラマ『女王の教室』の教師,阿久津真矢の言葉を思い出す。「どうして勉強をするんですか?」と問うた生徒に対して,曰く「(前略)自分たちの生きているこの世界のことを知ろうとしなくて何ができるというのですか。いくら勉強したって,生きている限りわからないことはいっぱいあります。世の中には,何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが,あんなものは嘘っぱちです。いい大学に入ろうがいい会社に入ろうが,幾つになっても勉強しようと思えばいくらでもできるんです。好奇心を失った瞬間,人間は死んだも同然です。」と。(http://makotodiary.hatenablog.com/entry/2014/09/29/001826を参考)

*10:https://www.youtube.com/watch?v=ZIuhAQyneLc

*11:http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3423/1.html

*12:カンディンスキーの絵は,抽象表現の中でも大変面白い。「リズム」や「音楽」などそもそも視覚に知覚されないものを,いかにして「絵に描く」のか。彼の絵には,その実験的表現の形跡が多数見られる。特に,彼の『点と線から面へ』(https://www.amazon.co.jp/dp/4480097902)は,今の感性工学にもつながるような「斜め上に向かう線は暖かく感じる」「三角は黄色」のような感性を視覚的に表現する上での指標を(一部は今の感性工学の結果と一致しないが)示している,当時としては恐ろしく前衛的な論である。

*13:https://www.youtube.com/watch?v=QVgtxp16y30 :この演説が動画として残っているものがあまり見当たらず,やむなく引用した。動画主やその主張など動画の外の事項に関しては一切中立の立場を取る。

『叫び』と『絶望』を見る体験 ムンク展@東京都美術館

ムンクの内なる『叫び』を見る

結論から言うと,この展覧会は,凄まじく面白い。あと2日しかない中で宣伝するのが申し訳ないくらいに。今まで40くらいの展示を訪れた*1けれども,感性に訴えかけてくるエネルギー,それが他の回顧展・展覧会を圧倒している。これだけ行っていて「もう一回見に行かねば」と思ったのは,これが初めてだった*2

私自身の不慣れな言葉と不案内な文章で少しばかりレビューを書いてみようと思う。後半は,印象に残った作品を使って,僕の横に人がいたらこんな話をするだろうな*3,という部分を書いてみたので,「鑑賞者」の追体験をしたい方がいたら,ぜひ後半まで飛んでそこから読んでほしい。

東京都美術館で明後日20日まで開かれている,ノルウェーの画家,ムンクの回顧展。19世紀末の写実主義から印象派以降の「絵画の既成ルールが崩れていく過程」*4がとても好きで,西洋美術館の常設展も後半戦になるとテンションが上がる*5のだが,今回は同時代とはいえノルウェーの画家というのもあり,『叫び』と『接吻』の2作を,知っている程度で,ムンクの作品をじっくりと眺めるのは,初めてだった。

「元祖自撮り」とでもいうべき,自画像とセルフポートレイト(自分を写した写真)の展示に始まり,ムンクという画家の生い立ちや思想的なものを知ったあと,『叫び』『絶望』が並ぶ部屋に...。

人がかなり多かった*6ので,多くの人が順番待ち列に並んで「立ち止まって」いたが,恐らくたった一人であってもしばらく「立ち尽くして」いただろう。今回展示されていた『叫び』が1910年ごろの作品,『絶望』は1894年に書かれた作品とされているが,同じ構図での連作が量産されたのもあり,最初の『叫び』は『絶望』と同時期に描かれたらしい。何しろこの2つが並ぶと面白いくらいに想像を掻き立てられる。その奥,少し広い横長の空間には,連作『マドンナ』『接吻』などが並ぶ。このフロアは,流石に欲張りすぎではというくらいに感性に訴えかけるエネルギーに満ち溢れていた。

 

見えるものではなく,見たものを描く

私は見えるものを描くのではない。見たものを描くのだ。(ムンクのスケッチブックより)

衝撃だった。19世紀末の「印象派/写実主義」と「象徴主義」の目指すところは,正直この一言で全て尽きている。

19世紀末, 写真や映画の技術が発展する中で,絵画の意義が問い直される中,自然のありのままを伝える「写実主義」や,風景や自然光をできるだけ再現すべく独特の筆遣いや色遣いを編み出した「印象派」と呼ばれる人々がいた。一方で,「象徴主義」と呼ばれる,目に見えない内面世界や神話世界を擬人化・可視化する形で表現を試みた画家の一群がいる。ムンクは,ノルウェーにいたとはいえ後者の印象を受けた。

まず,考えてみて欲しいのだが,私たちは『叫び』や『絶望』をなぜ見ることができるのか。それは,ムンクの作品を,という意味ではなく,「叫び」や「絶望」そのものを私たちはこの手に取るように,あるいは目の前で目にすることができるのだろうか。百歩譲って,叫んでいる顔や絶望している顔を見ることはできる。しかし,ムンクはその外面の表情や行動にとどまらない内なる叫びや絶望を,どうにか絵の上に落として見せられないか,あるいは落とさねばならないと,描いているように思う。事実,表情や行動だけだったら『叫び』の周りは,鮮やかな夕焼けに包まれる。しかし,空は今にも襲いかかってきそうな勢いで歪んでいる。『叫び』『絶望』の感情の吐露が絵画全面に託したような,圧倒的なエネルギーを持って私に迫ってきた。

「見える」ものではなく「見た」もの,これは私たち自身の普段の生活の中にも現れる。例えば,気持ちが沈んでいるときは周りのちょっとした声が自分の悪い噂をしているのではないかと気になったり,逆に気持ちが明るくなっているときは大したこともないのに楽しくなったり,世の中も明るく見える。風景自体がどう「見える」かは何も変わっていないのに,人間の内面によって「見た」ものが変わる。その「見た」ものをそのまま「見える」ものにしたら...,と絵画を作ったのがムンクの描いた『叫び』,血のように赤く染まる空であったのだろう*7

この問いは,私自身が研究している「錯視・錯覚」*8にも通じる。錯視・錯覚は,人間が知覚・認識の過程で「見える」ものが,「実際」の画像や音声・触覚の提示と異なる現象の総称と言える。「実際」とは,長さが同じ(ミュラー・リヤー錯視)だとか,色が同じ(チェッカー錯視)だとかいう,物理量によって測られることが多い。その物理量(あるいは物理量の差など)と,心理物理的な実験によって得た「知覚量」が異なる時に,錯視が発生しているとする*9。これに対して,「見える=知覚」と「見た=心理」の違いの探求は,どうなされているのだろう。まだ私自身心理学方面に明るくないので,錯視の話も含めて,もう少しいろいろ眺めてから書けるときに書いてみようと思う。

さて,脱線した話を戻しつつ,以下では私自身が印象に残った作品をいくつか取り上げて,それを実際にどう眺めていたかを書き留めてみようと思う。

 

『叫び』・『絶望』(『不安』)

ムンク展を訪れた方はわかるだろうが,『叫び』の周りだけ異様な人だかりができていた。じっくり見るには,後ろから眺めるしかない。本当は『不安』『叫び』『絶望』が並ぶ壁面を比較しながら眺めたかったところだが,人だかりの奥に位置した『不安』をゆっくり見ることは叶わず,対して『叫び』『絶望』の2作は比較的ゆっくり眺められたので,以下,まずはその2点を取り上げてみる。画像はムンク展の公式より(https://munch2018.jp/gallery/)。

 

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 『絶望』,『叫び』ともほぼ同じ構図で描かれている。橋の上を舞台に,立ち去る2人の男を後景に,絶望する男と叫びに耳をふさぐ男が描かれる。まず,前景の人物とともに目に飛び込んでくるのは大きく歪み,原色に近い色で眩しいほどにオレンジや黄色で塗られた焼け空。墨絵をカラフルにしたような奇怪なうねり方をしている。

私たちは,夕焼けをみると美しさを覚え,綺麗だと呟き,あるいは理系の一部は,地球の大気層と太陽光の絶妙な加減によって引き起こされることに感動こそすれ,絶望・叫びを見て取る人は圧倒的少数派だろう。

しかし,彼の目が「見た」ものは違ったようだ。後景に映る2人の男は,量産された『叫び』の連作のいずれにも,格好は違うものの登場してくる。

私は2人の友人と歩道を歩いていた。太陽は沈みかけていた。突然,空がちの赤色に変わった。私は立ち止まり,酷い疲れを感じて柵に寄りかかった。それは炎の舌と血とが青黒いフィヨルドと街並みにかぶさるようであった。友人は歩き続けたが,私はそこに立ち尽くしたまま不安に震え,戦っていた。そして私は,自然を貫く果てしない叫びを聴いた。(ムンクの日記より)

小説のワンシーンのような描き方だが,この不安に打ち震え,絶望にこだまし,叫び慄く自然に耳をふさぐムンクの姿がありありと映し出されている。友人が何も感じずに通り過ぎる風景に突如不安を覚え,絶望し,叫びを聞く。仮に私がムンクの横に立っていたとして,彼のいう「叫び」を聞くことができるのだろうか。恐らく否だろう。彼の内なる叫びが外面化され,「自然の叫び」として返ってくるものに耳をふさぐ。この他者に本質的に共有不可能な「叫び」をどうにか描き出そうとした本作は,そのおどろおどろしい赤く染まった歪む空と,それに呼応するように耳を塞ぎ立ち尽くす作者の姿が,ただただ鑑賞者を圧倒する。彼が体験した絶望や叫びを追体験する形で,作品の前に「立ち尽くす」のである。立ち尽くしたときに見えてくるのが,後景に映る友人とされた2人。彼らが何も感じずに通り過ぎていることが,むしろ「異常」に見えさえする。前景と後景の人物の対比が,非常に美しい。

その歪んだ空をじっと見ていると,『絶望』のほうは,血が滲んだような赤い色をしてはいるものの,背景は『叫び』ほど歪んでいないようにも見える。後景の二人の大きさに注目して,『絶望』→『叫び』のストーリーかな,と思いつつ,後景の2人は描かれ方が『叫び』によりかなりバリエーションがあるので一概には言えないが,自然の叫びを聞いた絶望かもしれないし,友人2人が気づかず私だけが襲われることへの絶望かもしれない...。想像を掻き立てる並べ方をしているのは,都美術館の妙ともいえよう。

夕焼けは,夜の始まりを象徴しているようにも見える。彼の「生と死」の文脈で言えば,「夜=死」の始まりを想起させ,その「死への絶望 / 死の恐怖を見せつけられたことへの叫び」と読むこともできそうである。彼の「死の哲学」は,最後に触れるが,この後ろが血に染まった夕焼けであったことは,単純な赤色以上の意味を持っているように思えてならない。

 

『接吻』・『目の中の目』

作品レビューの後半は,私自身が感動した2作品を勝手に紹介してみる。 一つは連作として様々な手法を用いて描き続けられ,その後の作品にも記号化されて引用される『接吻』,もう一つは『目の中の目』という作品である。『目の中の目』は,公式になかったのでムンクのウェブアーカイブから拾わせてもらった(https://arthive.com/edvardmunch/works/269047~Eye_to_eye)。

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『接吻』は,その表現に改めて心を動かされた。ドラマで「恋」ないし「愛」の表現として使い古された接吻の場面ではあるが,男女の顔がひとつながりのタッチで接続される,この表現を試みたムンクの感性にただ惚れ惚れする。

「恋愛とは何か」という問いも擦り切れるほど,小説がバカバカ売れ,歌手たちがてんやわんやに歌い続けている。「遠く離れても,つながりあっている」だとか「会えなくなった時にわかる寂しさ」だとか*10,確かに間違ってはいないかもしれないが,ムンクの妙は「接吻=行動」と「精神的な同体/境界の希薄化=内面」をこの1枚の絵で全て表現してしまったその恐ろしさにある。象徴主義的な絵画は,デフォルメが過ぎて「気持ち悪さ」を覚えることもあり,実際周りのお客さんの中には「この絵,なんか気持ち悪い」と素直におっしゃっていた方もいたが,この表現自体は中々編み出せるものではないように思う。この絵は,理性で感動しつつ,ある種の不気味さに感性も動かされたような絵である。
 

次いで『目の中の目』は,私自身が視覚系の研究をやっているというのもあり,興味深い作品だとしばらく眺めていたものである。人間の目自体がかなり綺麗な臓器であるのだが*11,この作品で注目したいのは,画家が描いた2人の目線である。右に立つ男性は,女性の目をじっと見つめている。対して,女性は男性の奥に広がる別の風景を見ているようにも見える。この前後でムンクの失恋話があり,その影響も入っているとは思うが,少し趣向を変えて,「男性は本当に女性を見ているのか」という問いを考えてみる。

それは,ムンクがつけた『目の中の目(Eye to eye)』に述べられたそのまま,「目の中の目」を見ているのではないか,という解釈である。人と目を合わせると,そこには相手の白目と黒目以外の色々な光景が映り込んでいる。以前,アイドルがそれで自宅の様子を特定されたという話が話題になったのを思い出すが,その人が見る周囲の風景が人の目の中に映り込むのである。その中には,自分自身,あるいは相手を見る自分自身の目も含まれる。『目の中の目』 とは,そんな相手の目の中に映った自分の姿,自分の眼差しを見て取ったのではないだろうか。

私は私を見ることができない。私は他者からの目によってしか見ることができない。特に私の「目」は,私自身1人では決して観察し得ない*12ものである。彼は,相手の女性の目を鏡のようにし,自分自身を観察していたのではないだろうか。それは同時に,他者である女性からの評価によって規定されるという「精神的な観察」も含まれているのだろう。「他者の視点」という,その後何十年かして哲学の世界でかなり議論された*13問いを,この時点で絵画表現として獲得している彼の眼力に恐れ入る。

 

ムンクの「死の哲学」を読み解いてみる

さて,ムンク展の最後は,次のような引用で締められた。

我々は誕生の時に,すでに死を体験している。

これから我々を待ち受けるのは,

人生の中で最も奇妙な体験,

すなわち死と呼ばれる真の誕生である。

パッと見た瞬間,「ん,何を言っているんだ?」となり,2回目に見たときはその言葉をもう一度噛み締めて帰りたいという心持ちも持って来た。以下,勝手に考えたことを書いてみる。実存主義の思想家は,私自身かなり理解が浅いので,間違っていることを書いているかもしれないので,批判的に読んでいただければ幸いである。

ムンクは,第二次大戦中の1944年に戦争のあおりを受けた形で病死している。この時代は,ヨーロッパが二度の大戦の中で大量の殺戮が行われ,不安と絶望が世界を取り巻き,「人間の生きる意味」が問い直され続けた時代と重なる。それと呼応するように,実存主義*14が台頭した時代でもある。「実存主義」とは,詳細はWikipediaやその他資料を参考にしていただきたいが,ざっくり切ると「集団や国家,学問などの普遍的な存在よりも,人間一人一人が今現に生きているという個別的な存在に価値を置く」とする考え方であり,当時国家や科学をはじめとした学問により「自分を見失いかけた」人々に希望の光として照らすような思想であったようにも思う。

実際,ニーチェ肖像画を展示してあったが,彼の著作や思想にムンク自身がかなり傾倒していたようである。おそらく,晩年のこの言葉は,ハイデガーの『存在と時間』にも影響を受けているように見える*15ハイデガーの「死」に関する考察は,人間にとって「生=生き方」は交換し得るものであっても,少なくとも「死」だけは,交換不可能で,貴族市民身分を問わずその人自身が引き受けなければならないものであり,そこに「人間」の可能性を見出した,という中々斬新な論であったように思う*16

ムンクも,生の絶望や不安を描き続けて来たが,老いて死を迎えるにあたり,そこに希望すら見出したのではないだろうか。

「我々は誕生の時に,すでに死を体験している」とは,生まれ落ち「生」を与えられたその瞬間,私たちはある種の「死」すなわち「生きることの絶望・不安」の体験が開始されている,という風に読めないだろうか?

さらに「これから我々を待ち受けるのは,死と呼ばれる真の誕生である」とは,「死」こそ「生の希望」でもあり,「死」の唯一性・代替不可能性を踏まえるならば「死」を迎えることで,私自身が初めて「他でもない自分自身を,苦しみ・絶望に打ちひしがれながらも生きてきた」という証を得られるという点で,「死して誕生する」ということができそうな気もする。

 

SEKAI NO OWARI 『Never Ending World』に見る死生観

このムンクの死生観に無意識を晒されつつ,偶々セカオワのサントラを回していて,ビビッと来て無限リピートで聴いている曲がある。Never Ending Worldという楽曲である*17。サビの一部を抜き出してみよう。

 「何か」が終わってしまったけれど,

それは同時に,「何か」が始まって,

「始まり」はいつでも怖いけれど,

だからこそ「僕ら」は,手をつなごう,

We are with you,

「何か」として,抽象化されているがゆえに,かなり色々な読み方を許されている楽曲なので,何度か聴いていると違う読み方もできるなあ,と考え,ここ数日この曲しかリピートしていない中毒症状に陥っているのはさておき笑

先ほどのムンクの死生観を踏まえるならば,この「何か」を「生」と捉えると,かなり符合するように思う。すなわち「生」の終わりは,すなわち新たな「生」の始まりでもあり,「その始まり」はいつも怖い,と。しかし,ムンクの誕生ほど「死」を意識している様子もなく,新たな生の始まりをポジティブに捉えている印象を持つ。

楽曲が作られたきっかけを調べていたら,やはり3.11の震災の話に当たった。Saoriがブログにも記載している(https://ameblo.jp/sekaowa/entry-11488188435.html)が,彼らの被災者支援の中で紡がれた楽曲のようである。先日のムンク展の帰りに「カタストロフと美術のちから」展を森美術館に見に行ったが,そこでも3.11は大きな出来事として取り上げられていた。「まごうことなき破壊の中でアーティストとして何ができるのか」を彼らも問い,その中で辿り着いた楽曲だと思うと,聞いている途中でふと涙が出そうになったのも頷ける。

彼らが描く死生観は「死の到来は,新たな生の始まり」とし,恐ろしく悲惨な出来事として「死」を突きつけられ,その中に「生」の意味を見出そうとした,という,ムンクと似て非なるもののように思う*18

もちろん,この楽曲は「学校生活」としての「生」という見方もできるだろうし,恋愛ソングの「1人の異性と付き合った人生」としての「生」とも見ることもできるだろうし,「生命の連鎖」として,親から子への継承のようなイメージも持ちうるだろう*19が,根本には「死と生」の軸が入っているのではないかと,今の所は解釈している。

セカオワって結構深い歌を歌っているな,というイメージがあったが,この歌は特にかなり引っかかるものがあったし,事実相当色々な点でよく練られているように思ったりする*20

 

おわりに

終わりは,同時に新たな始まりだという。この文章の終わりも,新たな誕生を心待ちにしているように思える。私自身がここまで紡いできたものを読者に解釈してもらうことも「誕生」であるかもしれないし,批判し修正してもらうことも「誕生」であるかもしれない。どんな作品も解釈され,批判されることで「始まり」を迎える。それは乗り越えるべきものなのかもしれない。あるいは殺すべきものなのかもしれない。しかし,「死こそ真の誕生」なのであり「終わりは始まり」なのであろう。

つらつらと脈絡なく思いついたことを書いてきたが,ムンクの絵から死生観に飛んで,セカオワの楽曲,ちょうどここ1週間で研究の合間に考えていたことが少しまとまったような気がする。

 

「始まり」はいつでも怖いけれど,だからこそ僕らは手をつなごう。

 

素敵な楽曲に包まれながら,しばし論文を読みつつ,研究と自身の考察を自分のペースで進めてみようと思う。

 

*1:メモ帳に行った美術館が記録されているが,学部3年の時にはまりだして,以後,小さい展覧会も含め40程度の展覧会に足を運んでいるようだ。

*2:「見に行ってもいいかな」と思うのは,先日の横浜美術館でのモネ展(https://monet2018yokohama.jp/)とか,だいぶ前のpanasonic汐留のカンディンスキー展(https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/17/171017/)あたりに思ったが,義務感すら覚えたのはこれが初めて...。

*3:一部実際にした覚えがあるが,いかんせん自分が何を話したかをすぐに忘れるので,今また思い出しながら書いている。

*4:三浦篤『まなざしのレッスン』か,高階秀爾『20世紀美術』あたりで聞いたフレーズ

*5:西洋美術館は,概ねルネサンス以降の西洋美術絵画と彫刻を展示している。ロの字型の回廊を回り終えてそこから横道に出るあたりから徐々に「絵画」が崩れていく様子を見て取ることができる。ルネサンス的な「均衡/秩序」とバロック的な「装飾/デフォルメ」の間の振動が,イタリア・フランスと場所を変えながら生じたことを回廊を回る形で表現して,そこを振り切る形で絵画のルールが崩れて行ったのを「横道」で表現しているように思え,展示空間として見せ方が上手いと勝手に感心していたり笑
ミレーの絵を過ぎて,セザンヌやマネ,ドガを横目に,通称?「モネルーム」に入っていくあたりは何度行っても感動する。

*6:1回目が土曜日の午後,2回目が金曜夜に行ったのだが,どちらも結構人が入っていた。金曜の夜は,人が少なく結構狙い目だと思っていたが,ムンクの『叫び』は,確かに名前が圧倒的に有名だからとっつきやすいのかもしれない。義務教育の成果なのだろうか笑

*7:認知科学では,「見える=表情」が「見た=気持ち」を規定する「表情フィードバック仮説」(表情フィードバック仮説 - Wikipedia )も提唱され,現在も議論がなされつつ研究されている。例えば,うつ病の患者にこれを応用して治療しようという研究など面白い(http://www.cyber.t.u-tokyo.ac.jp/ja/projects/)の『扇情的な鏡』

*8:錯視 - Wikipedia

*9:ただ個人差が大きい場合も多く,実験デザインが中々難しい...泣

*10:宇多田ヒカルはじめ,こういう系統を歌う歌手も好きではあるのだけれど,流石にいつまで同じテーマをあまり大した違いもなく歌い続けるんだ,というくらい似た表現が出てくるので,そろそろ誰か『日本の90年代以降のポップスにおける恋愛の描かれ方』というレビュー論文を書いていただきたい。ありそうな予感もする。

*11:「いや,それはないだろ」と思った方は,鏡の中でぜひ自分の眼球をじっと見てみて欲しい。映り込む景色も含め中々綺麗だと個人的に思う。「ひと目惚れ」という言葉があるが,あれは「一目見て」ではなく「人の目を見て」惚れる「人目惚れ」ではないかとすら感じるのだが,同意されなそうな予感しかしない...。

*12:強いて言えば,瞼を閉じた時の瞼を観察することができるくらいか

*13:私自身十全に把握していないが,レヴィナスらの「他者」の議論のほか,ケアの文脈や教育の文脈で「他者」を意識せざるを得ず,その中で哲学を試みる「臨床哲学」「教育哲学」などがあると理解している。

*14:実存主義 - Wikipedia

*15:いつか絶対に読み切ってみようと思いつつ,ハイデガー思想の解説ですらまだ読みきれていないのが悲しい...。

*16:ぜひニーチェハイデガーのラインに詳しい方は補足をください...

*17:Fukase作曲の歌詞(http://j-lyric.net/artist/a055790/l025eec.html)とSaoriのピアノの伴奏がとても素敵なので,追って気が向いたらこの曲も題材にとって色々考えてみようと思う。

*18:ある種,元々の「実存主義」に近い,生きることそのものに価値を見出す,という発想に戻ることで,ハイデガームンクの「死」を乗り越えた形になっているようにも見える。

*19:あまりに悲惨な状況で,当初直接描くことが不可能であったので,かなり抽象化した形,あるいは物語に乗せて,など様々な形で記録と解釈が試みられたようである。

*20:サカナクションの楽曲もその系統で好きなので,ぜひ両グループのメンバーにはエッセイを出していただきたい笑

創作紀行:『冬眠』『ネッカーの寝覚め』

しがない学生の東京創作紀行

*この節では,創作紀行の前座を書いているので,創作2編を読みたい方はここを飛ばして,『冬眠』『ネッカーの寝覚め』の各節に進んで欲しい。*1

友人と「変な遊び」を考えて,実際にやってみるのが休日の一つの楽しみである。例えば,

・駅名しりとり

東京メトロの駅の名前で交互にしりとりをし,なおかつ実際にその場所を訪れ,観光スポットを回る企画。計数の同期と実践した際には,「回れる上限」を調べたりもした*2。48駅が上限らしい。

・東京23区ポイントハンティング

東京23区に独断と偏見で観光スポットを定め,各区の観光大使さながら,その観光名所をTwitterにてレポートする企画。台東区旧岩崎邸庭園,港区の東京タワーに対し,東京の東側は,真冬の荒川河川敷に登らされたり,休館の地下鉄博物館の前で佇んだりと,中々各区の色が出る企画となった。

などを敢行した。幾らかの観光代,メトロの1日乗車券*3代を合わせても,1000円+食事代程度で丸一日遊べるので,中々お得なプランだと思う*4

さて,今回は私が最近「小説を読む」ことにはまっているので,逆に「小説を書く」立場にもなってみたい,という想いがあり,「しがない学生の東京創作紀行」と題して,東京中を「取材」して一編の短編を作ることを試みた。ルールは,以下の通りである。

創作・取材ルール

  1. 手番が回ってきたら,取材場所を決める。取材場所は,メトロ乗車券で到達可能な東京都内とする。
  2. 取材は新橋駅*5から始め,以後の移動場所はサイコロの出目により,すごろくの要領で決める*6
  3. 訪れた場所で,前の物語に繋がる形で200-400字程度の短い創作を投稿する。
  4. プロローグのみ事前作成とし,以後は都内を取材しながら作成する。また,互いの物語についての質問は,描写の矛盾など創作に著しい影響を及ぼす場合を除き,基本的に禁止とする。

『冬眠』・『ネッカーの目覚め』とも,その取材の中で生まれた短編*7である。各章末のKやNの文字は,創作者を示す。

 

 

『冬眠』

プロローグ

僕はベッドの上で本を読んでいた。午前0時。エアコンの室外機がゴウ,ゴウと音を立てる。階段の横に佇むカエルの人形は,あるものは虚ろな目をして,ある者は物憂げな表情で見下ろしている。ああ,あれは大学時代に学園祭で買ったカエルたちか。そう思いながら僕はそっと目を閉じた。K

1 

僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。高校の頃は無遅刻無欠勤で表彰されたこともある僕が,大学に入ったら遅刻魔になっている。JRを乗り継いで新橋についた。休日なのに人が多い。人,人,人。波が押し寄せる。K

2 

人の波を抜けた先の,眩しい世界へやってきた。おしゃれの町として名高い表参道。普段の僕ならば滅多に足の向く場所ではないのだが,今日は友人との待ち合わせ。この町でアルバイトをしていて,バイト上がりに会う約束をしたのだった。ファッション,起業,海外旅行。

目の前の友人が語る話は,完全に別の世界のようだ。そんな別世界の住人が,今僕の目の前に座ってにこやかに語らっている。どこか不思議な感覚を抱きながら,休日の昼は過ぎていった。N

3 

私は友人と別れた後,大学の研究室に戻った。卒業論文の提出まで後1ヶ月しかないので,ラストスパートの追い込みをかけている。1年間休学してどこかの授業の延長で作った高齢者の外出支援のアプリを元にベンチャーを立ち上げた。そのベンチャーが大体軌道に乗ってきたので,他の人間に任せて,自分は去年の4月に復学し,卒論を書いている。

基本的に順調に進んでいるのでこのまま提出しても良いのだが,色々と論を補完するデータを集めるために,休日も大学に通い詰めている。何かを生み出すことの快感と幸福感は何にも勝る。そういえば,あの友人とはいつ頃知り合ったのだろうか...。K

4 

友人との話をしていたら昔が懐かしくなり,久しぶりに大学を覗いてみることにした。しかし相変わらず人が多い。これではまるで観光地だ。もっとも,僕がそんなことを言えた義理ではないが。しかし,いつきても威厳のある門や建物に気圧される。やはり僕には不相応な場所なのだ,と卑屈になってしまうが,今は前に進まなければいけない。沈む気持ちを抑え,僕は思い出の場所を後にした。N

5 

凍てつく寒さをしのぐために,厚手のジャケットを着て,マフラーを巻く。一昨日都内でも初雪が降ったとネットで流れていたが,確かにそう聞いても驚かないくらいには寒い。けれども,私は冬の方が好きだ。夏のように素肌を焼かれることもなく,厚手の服を着ると誰かに包まれているようで,寂しさも和らぐ。何より服を着込めば着込むほど,私は私自身を隠すことができる。昨日の私は,卒論を書く学生。今日の私は,気分転換に銀座に繰り出す若者。こうやって私は私を使い分けて生きている。あの人と出会ってちょうど1年だと思いたち,今日は何か買おうとこの街に出て来たのである。K

6 

僕は冬が嫌いだ。といいつつ夏もあまり好きではないのだが,夏は暑い暑いと文句を言いながらも動くことはできる。しかし冬になると物理的に縮こまって,動けなくなってしまうように感じられるのだ。ほら,原子レベルの世界だって温度が下がるとものは動かなくなるだろ,自然の摂理なんだよ。などという冗談を頭の中でつぶやきながらも,今日は無理やり自分の体を動かしている。やはり,立ち止まっているわけにはいかないのだ。

そんな風にあちこちに思考を迷走させながら,僕の身体はまっすぐに大きな繁華街にやって来た。相変わらず気乗りはしないが,このタスクだけは済ませておかなければならない。

そそくさと店を出ると,いくらかホッとした。しかし,冷たく鋭いビル風が僕を現実に引き戻して来た。まだまだ難題は立ち塞がっているのだ。でも,少しくらいは息抜きも必要か。そう思った僕は店に戻り,少しばかり高級な価格設定の喫茶店に足を踏み入れた。N

7

私は, 大通りからちょっと外れた馴染みの店に入る。ヴィトンのバッグだとか,ティファニーのネックレスだとか,ブランドものの良さは私にはわからない。むしろ,路地裏から店を発掘していくのは,アイドルのプロデューサーとか考古学者や歴史学者にも似た感動が味わえる。卒論を「東南アジアの灌漑の歴史」という農学部の中でもちょっとマニアックなテーマにしたのも,歴史学への憧れがあった。

いや,今日は卒論を書く学生じゃなく,銀座に繰り出す企業で金を稼いだ若者を演じねば。あの人に何を買おう。指輪は流石に大げさすぎるか。そういえば,私は今日マフラーを忘れたんだった。自分と色違いのマフラーを渡すのもちょっと粋だ。早速帰りにつけて帰ろう。

帰りがけに,時計を売っているお店を見つけた。大学に入ってから社会人になっても遅刻ぐせがなかなか取れない,とぼやいていたことをふと思い出す。目覚まし時計でも買ってやるかと,追加で一つ買い物リストに加えた。K

8

いつからだろう,失敗をしたときに必要以上に引く地に感じるようになってしまったのは。やはり就職活動だろうか。正直この名前を口に出すのも,頭に思い浮かべるのも不愉快極まりないのだが,自分が変わってしまったとしたら,そしてその原因を過去に求めるなら,このイベントを無視するわけにはいかないだろう。...あまり思い出したくもないのだが,ひたすら自分を否定され続けるという日々というのは端的に言って地獄でしかない。人間というのは苦痛に晒され続けるとおかしくなる生き物だ。もう深く考えるのはよそう。僕がやりたいのは過去に浸ることではなくて,未来へ進むことだ。

多分ここで大丈夫だろう。 相変わらず気後れはするが,今回ばかりは背伸びが必要なのだ。自分の中の不安を宥め,煌びやかな大都会・新宿の隅に佇む小綺麗な店の予約を取ることにした。N

9

LINEを見ると,新着のメッセージが一件あった。

「来週の日曜夜に,新宿のお店を予約してみたんだけど,一緒にいかがですか?確か空いてるって言ってたので...。」

私は一呼吸置いて,スマホの画面をもう一度眺めた。いつもだったら,こんなかしこまった文面を送ってはこない。ただならぬ雰囲気を感じる。最近仕事がうまく行っていないと聞いたから,その辺の愚痴を言いに来るのだろうか。それならいつものように「最近職場の上司が,何かと僕をバカにして来るんだよね」とか,軽い調子で会話が始まったはずだ。 

あれこれ色々あらぬ思考を働かせてしまう。私の悪い癖だ。どちらにしろ色々話したかったというのもあるし,何より結構時間をかけて買ったプレゼントも渡したい。私は,LINEの送信ボタンを押した。

「いいですよ。どこに行けば良いですか...?柚月さん」K

10

努力の甲斐あって,彼女はこの時間を楽しんでくれたようだ。まずは一安心。しかも向こうからプレゼントまで貰ってしまった。中身が気になるが,開けないでと言われたので仕方ない。楽しみにしておこう。とても楽しいひと時だが,今日はここで満足してはいけない。未来へ進むのだ。それになんともくだらない話なのだが,家を出るときにいつも目に入るカエルの人形が,今日は笑っているように見えたのだ。彼らもまた,僕を応援してくれるのかもしれない。意を決した僕は,こう切り出した。

「今日はもう少し付き合っていただけますか?一緒に行きたい場所があるんです。...日坂さん。」N 

11

私は冬が好きだ。暖かい服を着て自分を隠すことができる。厚手のコートを深く着て,今日はあのマフラーもつけてきた。あの時よりもすごく暖かく感じる。それは,今日マフラーをつけてきたからだけなのだろうか。

彼は冬が嫌いだと言った。冬は原子が動きにくくなるから何のと水素水の営業みたいな言い訳をつけて。本当に理系の私に何を言っているんだろう。

東京駅,行幸通り。去年工事が終わって綺麗に舗装されている。ストリートライブをやっている女の子が寒そうな服で元気に歌を歌っている。私が寒そうにしていると,彼はそっと手を握ってきた。私がプレゼントしたお揃いのマフラーをつけて。

来週末の東京は,数年ぶりに雪が積もるという。前に大雪が降ったときは家族で雪だるまを作って遊んだのを思い出す。

私は冬が好きだ。冬が終われば必ず春が来るから。K

エピローグ 

僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。昨日は長い夢を見た。夢のつづきがきになるが,そうこうしていると3限のテストにも遅刻してしまう。彼らはその後どうなったのだろうかと,カエルたちに聞いて見ても答えは返ってこない。カエルなくせに答えが返らない。

日坂柚月はそんな冗談を言いながら,今日も大学に向かうのであった。K 

(終)

 

 

『ネッカーの寝覚め』~Another Story~

プロローグ

僕はベッドの上で本を読んでいた。午前0時。エアコンの室外機がゴウ,ゴウと音を立てる。階段の横に佇むカエルの人形は,あるものは虚ろな目をして,ある者は物憂げな表情で見下ろしている。ああ,あれは大学時代に学園祭で買ったカエルたちか。そう思いながら僕はそっと目を閉じた。K

1 

僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。高校の頃は無遅刻無欠勤で表彰されたこともある僕が,大学に入ったら遅刻魔になっている。JRを乗り継いで新橋についた。休日なのに人が多い。人,人,人。波が押し寄せる。K

2 

人の波を抜けた先の,眩しい世界へやってきた。おしゃれの町として名高い表参道。普段の僕ならば滅多に足の向く場所ではないのだが,今日は友人との待ち合わせ。この町でアルバイトをしていて,バイト上がりに会う約束をしたのだった。ファッション,起業,海外旅行。

目の前の友人が語る話は,完全に別の世界のようだ。そんな別世界の住人が,今僕の目の前に座ってにこやかに語らっている。どこか不思議な感覚を抱きながら,休日の昼は過ぎていった。N

3 

私は友人と別れた後,大学の研究室に戻った。卒業論文の提出まで後1ヶ月しかないので,ラストスパートの追い込みをかけている。1年間休学してどこかの授業の延長で作った高齢者の外出支援のアプリを元にベンチャーを立ち上げた。そのベンチャーが大体軌道に乗ってきたので,他の人間に任せて,自分は去年の4月に復学し,卒論を書いている。

基本的に順調に進んでいるのでこのまま提出しても良いのだが,色々と論を補完するデータを集めるために,休日も大学に通い詰めている。何かを生み出すことの快感と幸福感は何にも勝る。そういえば,あの友人とはいつ頃知り合ったのだろうか...。K

4 

友人との話をしていたら昔が懐かしくなり,久しぶりに大学を覗いてみることにした。しかし相変わらず人が多い。これではまるで観光地だ。もっとも,僕がそんなことを言えた義理ではないが。しかし,いつきても威厳のある門や建物に気圧される。やはり僕には不相応な場所なのだ,と卑屈になってしまうが,今は前に進まなければいけない。沈む気持ちを抑え,僕は思い出の場所を後にした。N

5 

凍てつく寒さをしのぐために,厚手のジャケットを着て,マフラーを巻く。一昨日都内でも初雪が降ったとネットで流れていたが,確かにそう聞いても驚かないくらいには寒い。けれども,私は冬の方が好きだ。夏のように素肌を焼かれることもなく,厚手の服を着ると誰かに包まれているようで,寂しさも和らぐ。何より服を着込めば着込むほど,私は私自身を隠すことができる。昨日の私は,卒論を書く学生。今日の私は,気分転換に銀座に繰り出す若者。こうやって私は私を使い分けて生きている。あの人と出会ってちょうど1年だと思いたち,今日は何か買おうとこの街に出て来たのである。K

6 

僕は冬が嫌いだ。といいつつ夏もあまり好きではないのだが,夏は暑い暑いと文句を言いながらも動くことはできる。しかし冬になると物理的に縮こまって,動けなくなってしまうように感じられるのだ。ほら,原子レベルの世界だって温度が下がるとものは動かなくなるだろ,自然の摂理なんだよ。などという冗談を頭の中でつぶやきながらも,今日は無理やり自分の体を動かしている。やはり,立ち止まっているわけにはいかないのだ。

そんな風にあちこちに思考を迷走させながら,僕の身体はまっすぐに大きな繁華街にやって来た。相変わらず気乗りはしないが,このタスクだけは済ませておかなければならない。

そそくさと店を出ると,いくらかホッとした。しかし,冷たく鋭いビル風が僕を現実に引き戻して来た。まだまだ難題は立ち塞がっているのだ。でも,少しくらいは息抜きも必要か。そう思った僕は店に戻り,少しばかり高級な価格設定の喫茶店に足を踏み入れた。N

7

私は, 大通りからちょっと外れた馴染みの店に入る。ヴィトンのバッグだとか,ティファニーのネックレスだとか,ブランドものの良さは私にはわからない。むしろ,路地裏から店を発掘していくのは,アイドルのプロデューサーとか考古学者や歴史学者にも似た感動が味わえる。卒論を「東南アジアの灌漑の歴史」という農学部の中でもちょっとマニアックなテーマにしたのも,歴史学への憧れがあった。

いや,今日は卒論を書く学生じゃなく,銀座に繰り出す企業で金を稼いだ若者を演じねば。あの人に何を買おう。指輪は流石に大げさすぎるか。そういえば,私は今日マフラーを忘れたんだった。自分と色違いのマフラーを渡すのもちょっと粋だ。早速帰りにつけて帰ろう。

帰りがけに,時計を売っているお店を見つけた。大学に入ってから社会人になっても遅刻ぐせがなかなか取れない,とぼやいていたことをふと思い出す。目覚まし時計でも買ってやるかと,追加で一つ買い物リストに加えた。K

8

いつからだろう,失敗をしたときに必要以上に引く地に感じるようになってしまったのは。やはり就職活動だろうか。正直この名前を口に出すのも,頭に思い浮かべるのも不愉快極まりないのだが,自分が変わってしまったとしたら,そしてその原因を過去に求めるなら,このイベントを無視するわけにはいかないだろう。...あまり思い出したくもないのだが,ひたすら自分を否定され続けるという日々というのは端的に言って地獄でしかない。人間というのは苦痛に晒され続けるとおかしくなる生き物だ。もう深く考えるのはよそう。僕がやりたいのは過去に浸ることではなくて,未来へ進むことだ。

多分ここで大丈夫だろう。 相変わらず気後れはするが,今回ばかりは背伸びが必要なのだ。自分の中の不安を宥め,煌びやかな大都会・新宿の隅に佇む小綺麗な店の予約を取ることにした。N

9

LINEを見ると,新着のメッセージが一件あった。

「来週の日曜夜に,新宿のお店を予約してみたんだけど,一緒にいかがですか?確か空いてるって言ってたので...。」

私は一呼吸置いて,スマホの画面をもう一度眺めた。いつもだったら,こんなかしこまった文面を送ってはこない。ただならぬ雰囲気を感じる。最近仕事がうまく行っていないと聞いたから,その辺の愚痴を言いに来るのだろうか。それならいつものように「最近職場の上司が,何かと僕をバカにして来るんだよね」とか,軽い調子で会話が始まったはずだ。 

あれこれ色々あらぬ思考を働かせてしまう。私の悪い癖だ。どちらにしろ色々話したかったというのもあるし,何より結構時間をかけて買ったプレゼントも渡したい。私は,LINEの送信ボタンを押した。

「いいですよ。どこに行けば良いですか...?柚月さん」K

10

努力の甲斐あって,この時間を楽しんでくれたようだ。まずは一安心。しかも向こうからプレゼントまで貰ってしまった。中身が気になるが,開けないでと言われたので仕方ない。楽しみにしておこう。とても楽しいひと時だが,今日はここで満足してはいけない。未来へ進むのだ。それになんともくだらない話なのだが,家を出るときにいつも目に入るカエルの人形が,今日は笑っているように見えたのだ。彼らもまた,僕を応援してくれるのかもしれない。意を決した僕は,こう切り出した。

「今日はもう少し付き合っていただけますか?一緒に行きたい場所があるんです。...日坂くん。」N 

11

私は冬が好きだ。暖かい服を着て自分を隠すことができる。厚手のコートを深く着て,今日はあのマフラーもつけてきた。あの時よりもすごく暖かく感じる。それは,今日マフラーをつけてきたからだけなのだろうか。

彼女は冬が嫌いだと言った。冬は原子が動きにくくなるから何のと水素水の営業みたいな言い訳をつけて。本当に理系の私に何を言っているんだろう。

東京駅,行幸通り。去年工事が終わって綺麗に舗装されている。ストリートライブをやっている女の子が寒そうな服で元気に歌を歌っている。私が寒そうにしていると,彼女はそっと手を握ってきた。私がプレゼントしたお揃いのマフラーをつけて。

来週末の東京は,数年ぶりに雪が積もるという。前に大雪が降ったときは家族で雪だるまを作って遊んだのを思い出す。

私は冬が好きだ。冬が終われば必ず春が来るから。K

エピローグ 

僕は朝目を覚ました。時間は午前10時。時計が狂っていたのだろうか。自分が狂っていたのだろうか。ひとまず今日も遅刻だ。昨日は長い夢を見た。夢の続きが気になるが,そうこうしていると3限のテストにも遅刻してしまう。彼らはその後どうなったのだろうかと,カエルたちに聞いて見ても答えは返ってこない。カエルなくせに答えが返らない。

日坂紫月はそんな冗談を言いながら,今日も大学に向かうのであった。K 

(終)

 

感想戦・解説 [叙述トリックとネッカーの立方体]

以下,創作小説の重大なネタバレを含むので,本編を読んでいない方はぜひ読んでからお越しください笑

将棋や囲碁などの対局の後,「あの指し手はどうだったのか」と対局を再現しながら感想を述べあう感想戦というのが行われると聞く。

今回の創作を通じて,複数人で創作をする際は「相手の紡ぐ物語の描写を自分なりに解釈し,伏線を発見し,そこからどう新たな物語を紡ぐか」という点で,相手の一手を見極め自分の一手を指して行く,将棋や囲碁の対局にかなり近しいものを感じた。

実際,相手(N)とエピローグまで書き終えて,「せっかくだし,感想戦をやろう」ということで,いくつかお互いが考えていたプロットの発展形を披露したのである。例えば,2つの物語に関係しないエンディングとして,

  • 0の「虚ろ」「物憂げ」のカエルの伏線を回収する形で,「人生に前向きになれず物憂げな僕」と「バリバリ仕事をしているが,結局自分自身を見つめきれず虚ろな私」の対比を描く
  • 7のプロットを変えるのがかなり分岐点で,ここに色々な物語をつける
  • 9「柚月」が苗字・名前,男・女とも取れる名前であったので,それを利用した叙述トリックを描く

などが上がった。文芸部なども小説は一人で書くことが多いのだろうから,複数人でしかも大筋を考えず気ままに発展させて行った結果,物語の複数の可能性を色々見つけることができたように思う。

 

...さて,ここまでくれば数少ない読者の不可抗力的なネタバレリスクを下げられたと思うので,以下,本題の2編の解説を少しばかり書き留めておこう。

『冬眠』と『ネッカーの寝覚め』は,どちらも同じ物語から徐々に分岐し派生した2つの物語である。事実,創作として変更したのは,

  • 10「彼女」: 削除,「日坂さん」:「日坂くん」
  • 11「彼」:「彼女」(2箇所)
  • エピローグ「日坂柚月」:「日坂紫月」

の計4箇所,6文字だけである。*8しかし,この微々たる変更だけで小説の全体の様相が大きく変わったのは,本編を読んでいただいた方なら,体感?いただけたと思う。

ビジュアルノベル的なマルチエンディングは物語の最後が色々変わって行くものだが,この小説は「たった5文字の変更で最初から全て物語が書き換わりうる」ところに醍醐味があるように思う*9

 

『冬眠』では,「僕」は就職活動を終え,大学学部を出て就職予定の卑屈な東大男子,「私」は起業で資金を稼ぎ,現在は卒論に熱中しつつも,少し影を見せるやり手の東大女子として描かれているが,『ネッカーの寝覚め』では,性別が逆転し「僕」が女子,「私」が男子として描かれる。おそらく,多くの人が,「僕」の一人称とその後の「卑屈な男子」と「キャリアウーマン」のわかりやすい構図に引っ張られて,『冬眠』の物語がノーマルなように感じてしまうのだろうが,「僕」を女性,「私」を男性としても,この物語はほとんど成立するのである。5文字でそれをひっくり返せるのは,小説の醍醐味とも言えよう*10

このように「嘘は書いていないが,事実描写をぼかすことによるミスリードを行う」手法は,ミステリー作品において叙述トリックと呼ばれ,アガサ・クリスティアクロイド殺し』が有名だが,私自身は最近綾辻行人の『館シリーズ』の「1行でのどんでん返し」にハマっている。

今回の『ネッカーの寝覚め』の結末も,一緒に創作をした相手(N)が2章を書いてきた時点で,「これは男女を最後に逆転させたら面白いのでは」と,執筆相手にも伏せてその結末を書こうと勝手に決めていた。*11

ミステリーであれば「結末に読者がたどり着き得た伏線,あるいはミスリードの行き着く先が袋小路である伏線」を書くのが通例だが,今回はミステリーではないのでそこは大目に見ていただきたい笑*12

さて,認知科学の有名な錯視の一つに,ネッカーの立方体がある。これは,立方体を平面に描いた下の画像のようなものだが,ある時は中央右上の頂点が出っ張っているように見え,ある時は中央左下の頂点が出っ張っているように見え,一つの画像が2つの立方体を知覚させるという,興味深い錯視である。

 

ja.wikipedia.org

ちょっとした見方によって,見える物語がガラリと変わる。『冬眠』が一つの立方体だとすれば,『ネッカーの寝覚め』は見方を変えれば出てくる別の立方体なのではないだろうか。

まとめ

私は,年明けから「小説」という媒体に大変興味を持っている。詳しくはもう少し言語化できたら書くつもりではいるが,今回の創作の「複数の解釈の可能性」というのも,小説の持つ魅力といえよう。作中作(いわゆる夢オチ)という形をとったのも,「もう一つの人生」としての物語の可能性に注目したかったというのがある。

科学が「真理の探求」を目指すならば,物語は「可能性の探求」を目指す,どこで読んだか忘れてしまったが,そんな話を思い出した。

補遺

各章の取材先は,サイコロの出目により,1: 新橋,2:表参道,3,4:東大前,5-7:銀座,8-10:新宿,11:東京,の各駅となっている。

*1:多分,この2作を対にして出してみようと思ったのは,東京都美術館ムンク展の『叫び』と『絶望』が,同じ構図で並べられていたのに感動した余韻があったのだろう笑:来週,感想等々を書いてみます。

*2:VBAで駅名の最長しりとりを遊んでみる - Qiita

*3:現在は,「東京メトロ24時間券」

*4:そろそろ観光会社から企画デザインを持ちかけられないかと待っているのだが(冗談)

*5:互いの都合の良い場所という以上に特に理由はない。

*6:以前,後輩から一度に3つ振れる便利なサイコロをもらったので,そのうち2つを出目のカウント,もう一つを特殊効果(同じ場所での再取材,強制乗り換え)などの設定をつけて,いわば桃鉄的要素をつけてすごろくとしても楽しむことにした。

*7:正確には,全く本質でない描写の修正を少し入れたのと,『ネッカーの目覚め』10,11の一部は事後創作である。

*8:エピローグは,別の趣向を入れるために変更したので,実質は3箇所・5文字の変更。「日坂紫月」という名から想像できるように,彼らの子供と暗示して「夢オチ」に少々アクセントを加えてみた。

*9:たかが性別だ,と思いつつも,小説を読む際は,大抵何らかの「配役」をイメージしながら読む点で,意外と面白い体験?になるような気もする

*10:男女で性を二分することは如何なものか,というLGBT関連の議論は浅学ながら少し耳に挟むが,むしろたった5文字で男女がひっくり返せる程度の危ういものなのに,「僕」=男性,「私」=女性として読んでしまう人が大半なことにジェンダーの問題を問えるのではないか,とも思っている。

*11:ちょうど最近読んだ,綾辻先生の某館のトリックの一つがそれに近い描写を使っていたのに感化されたのだと思う。

*12:「指輪を買う(7)」という描写で「私」が男性である方向に引き戻すつもりがあったが,今のご時世女性から男性に結婚指輪を渡すこともよくあるだろうので,結局中性的な表現になってしまった...。綾辻先生の300ページを1行でひっくり返す叙述トリックは,その創作力にただただ感動する。

年末年始の小説寸評 『コンビニ人間』・『人魚の眠る家』

年の瀬の品定め

2018年も終わりに差し掛かったある日,本屋に立ち寄った。本を手にとり,裏表紙にあるあらすじを読み,気になったら中をパラパラとめくってみる。暇なときは,論文か結構マニアックな評論をネットの森から発掘して,時には評論をポチって読むのが日常だったので,「売れ筋Best20」などのPOPを見ながら,世の中の人たちはこんな品定めをしていくことが,かなり久々だった。

本屋で色々眺めるのは,全く予想していなかった出会いがある。ネットサーフィンだと基本的に「関連項目」や「オススメ」として連想ゲームのように飛んでいくので,アナログに,全く新しい本との「遭遇可能性」*1を求めて歩き回るのも,私にとってはさりげないエンタメである。

衝動買いをする際の「なぜその商品を選んだか」については,勝手に補完されていくことが多い。実際に読んでみて面白い作品との出会いが果たせたので,その理由はいくらでも考えられるわけだが,選んだ当初は「なんとなく面白そうだから」「なんか映画化もされているらしいし,ちょっとは流行を追いかけるか」といった軽いものだったし,もしかしたら「そこに本があったから」というものだったかもしれない。ひとまず,

村田沙耶香コンビニ人間*2

東野圭吾人魚の眠る家*3

・志駕晃『スマホを落としただけなのに*4

の3冊を衝動買いした。

普段,難しげな評論を読むときは1ページ1ページ噛みしめるように読まないと,理解が追いつかないのだが,こういう小説はドラマや映画を見るようにサラっと読めるので,ページがサクサク進む。結局年末買った3冊が,年末年始の空き時間で読み終わってしまったので,その感想などを書き留めておこうと思う。小学校の読書感想文では「作文用紙の枚数をいかに稼ぐか」の勝負を同級生の子とひたすらやり続けていたのを思い出すが,別に争う相手もいないので,筆が続くだけざっと書いてみることにする。ただ,『スマホを落としただけなのに』だけは個人的に少し別系統の小説であるように感じた*5ので,上の2つについて寸評を書いてみる。

以下,本のネタバレを多少書いてしまう(決定的なネタバレは流石に避けますが)と思うので,もし気にする方は,ぜひ本を手にとっていただいてから読んでほしいです笑

 

「普通」への圧力と「異常」の排除 〜村田沙耶香コンビニ人間』〜

いらっしゃいませー!」お客様がたてる音に負けじと、私は叫ぶ。古倉恵子、コンビニバイト歴18年。彼氏なしの36歳。日々コンビニ食を食べ、夢の中でもレジを打ち、「店員」でいるときのみ世界の歯車になれる。ある日婚活目的の新入り男性・白羽がやってきて…。現代の実存を軽やかに問う第155回芥川賞受賞作。(Amazonの「内容」より)

2016年に芥川賞を受賞した本作は,筆者自身もバイトをしていたというコンビニを主たる舞台にした作品である。レジ打ち,商品陳列など私たちもよくみる光景がさすが実際にバイトをしていただけあり,かなり詳細な部分までリアリティ溢れる筆致で描かれているが,その本領は「普通とは何か?」を軽いタッチで作品に散りばめられているところに発揮されている。

日常生活では,「常識で考えたら,ありえないでしょ」とか「普通は,こうするもの」など「常識」「普通」の名の下に,「異常」を排除するやりとりがしばしば展開される。果たして,彼らが使う「常識」や「普通」といった言葉は一体何を指しているのか?

この作品の主人公,古倉は「マスターすれば普通であると認められるマニュアル」が存在する仕事としてコンビニの仕事を肯定的に捉え,マニュアル通りに仕事をするだけで「普通の人間」として認められることに嬉しさを覚えている。

確かに,多様な生き方を認める社会だというわりに,未だに「普通への圧力」はあまりにも大きい。「博士に行ったら人生終わりだ。さっさと就職しろ」とか「なぜいつまで彼女がいないままなのだ,お前は欠陥品ではないのか」などといった訳の分からない「結婚至上主義」「学歴至上主義」「安定至上主義」と行った様々な圧力に常にさらされている。これら全ての「普通」を完璧に満たしている人は,一体どのくらいいるのだろうか?

そもそもこの「普通」の概念はかなり相対的なものだといえる。小説内に「コンビニ店員」としての普通と「正社員」としての普通に乖離があることが仄めかされているように,「普通」はその人が置かれる立場によって違う。「普通への圧力」が「多数派への同調圧力」である場合,Aという基準での多数派,Bという基準での多数派...と重ねていくと,Aの多数派かつBの多数派かつCの多数派...を満たす人間は,恐らく全体の中で多数派にはならない。しかし,多数派でないはずなのに,「普通」であることを常に望み,その「普通」を他者に押し付ける風潮がある。

「普通」を望むのは「異常」を排除することにより,自身が「多数派=普通」であることを確認する儀式なのだろうか。そもそも「普通」であることは,「非異常=ab-abnormal」としてしか輪郭をはっきりさせることができないから,異常を排除する営みが続き,そこに快感すら覚える人間が多いのではないか。ちょうど木村敏『偶然性の精神病理』などの臨床哲学を並行して読んでいるので,「異常」とは何か,という問いを,それら文献も通じて考えることとしたい。 

いずれにしろ,この小説を通じて「普通」であることの難しさ,そもそも「普通」であるべきなのか,最近考えていることを斜め45度から叩きつけられ,小説特有の「滲み出る哲学」に感動を覚えた次第である。

 

「生」と「死」の境界はどこにあるのか? 〜東野圭吾人魚の眠る家』〜

娘の小学校受験が終わったら離婚する。そう約束した仮面夫婦の二人。彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前だった。娘がプールで溺れた―。病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか―。(Amazonの「内容」より)

東野圭吾は,ガリレオシリーズや加賀恭一郎シリーズなどで以前からお世話になっているが,本作はミステリーよりも,かなり哲学色が強い作品だろう。一言でいえば「生と死の境界は何で決められるのか」という大きな問いを投げかけている。

少しだけ序盤のネタバレをするならば,引用した「残酷な現実」とは「恐らく脳死であろう」という宣告である。「恐らく」というのは,現在の日本では「臓器移植の意思を示した場合に脳死判定を行う」ため,「脳死である」と断言することはできないことを含んだ表現である。

多くの人が持つ運転免許証の裏側には,「臓器提供に関する意思表示」の欄が存在する。そこには,次のように書かれている*6

以下の部分を使用して臓器提供に関する意思を表示することができます(記入は自由です。)。記入する場合は,1から3までのいずれかの番号を○で囲んでください。

1. 私は,脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも,移植のために臓器を提供します。

2. 私は,心臓が停止した死後に限り,移植のために臓器を提供します。

3. 私は臓器を提供しません。

(後略,運転免許証裏面の「臓器提供に関する意思表示」より)

この1と2を見比べるとわかるが,医学的にも「脳死」と「心臓死」の2つの基準が混在している。脳死とは「脳全ての機能が不可逆的に回復不能な状態」とされており,大脳の機能が停止し,意識がない状態であるいわゆる「植物状態」とは区別されるが,日本では,「臓器移植の場合を除いて,脳死を個体の死とは認めない」という方針を採っているという。つまり,臓器移植の意思が示された場合にかぎり「死」が宣告されるという,かなり微妙な立ち位置にいるらしい*7

以前,上級救命講習を受けた際に「心臓マッサージは,一番ダメージを受けやすい脳に酸素を送り続けるために行うものであるから,脳に血液を送り届けるアシストをしていることを理解してほしい」と救急隊の方からお話を伺ったことを思い出す。心肺蘇生は,この2つの意味での死の瀬戸際から救い出しているのだろう。

近年取り壊される文化財や建物のアーカイブVirtual RealityVR)の技術によって記録・再生することが実現している中で,「人間のアーカイブ」は何を取れば良いかという議論を情報系界隈の複数の先生方から伺った覚えがある。もちろん人間の寿命は有限なので,そこは避けられないが,周囲の人々が「その人間が存在する」と感じるためには何が必要か,という議論である。この議論は,裏を返せば「何が人間の存在を決めるか」という問いにもなり,「生と死の境界」を問うていることになる。

本作のラストでは,ここではネタバレを避けるがその心臓死でも脳死でもない「死」の形を示していたように思う。頑なに「恐らく脳死」と宣告された娘の母親がその「死」の時間にこだわったのも,主観的な死の一つのあり方が描かれているのだろう。

総じてかなり重いテーマを扱っていたが,東野圭吾ミステリーのグイグイ惹き付ける文章に導かれて結構スラスラ読め,深く考えさせられる一作であった。

 

小説からにじみ出る「生きた哲学」とその表現の可能性

これら二つの小説が問うている問いは,哲学の問題としてもしばしば取り上げられてきたものだろう。だが,哲学書と小説の書き振りは正反対である。哲学書が,理路整然と論理的に述べるのに対し,小説は活劇を通して哲学が「にじみ出る」ように描かれる。同じテーマを扱うのにこれだけ表現方法が違うのも中々面白い。

私自身は科学や哲学といった学問を小中学校以来積み上げてきて,またそれをある種大学に入るまで神聖化していた節があるので,小説の非言語的ににじみ出る哲学の表現技法にここ最近,興味を惹かれている。哲学や科学の論理は論理的でありすぎるが故に無味乾燥としてしまい,学問に閉じたものになりがちな一方で,小説は,生き生きと登場人物が動く中でメッセージが滲み出てくる手法をとり「生きた哲学」として日常に溶け込ませることができているように思う。

学問を日常に溶け込ませる,あるいは日常から引き上げた形で学問を構成していく手法をこの数年,科学コミュニケーションの文脈から探してきたが,こういった「生きた哲学」としての小説の表現技法を理解することは,何がしかその手法を探る糸口になるかもしれない。

*1:『ひとり空間の都市論』https://www.amazon.co.jp/dp/4480071075の序論,孤独のグルメhttps://www.tv-tokyo.co.jp/kodokunogurume/社会学の観点から論じていた中に,「遭遇可能性」として語られ,グルメ検索アプリなどで口コミを元に事前に行く場所が決まる「検索可能性」と比較していた。

*2:https://www.amazon.co.jp/dp/4163906185/

*3:https://www.amazon.co.jp/dp/4344028503

*4:https://www.amazon.co.jp/dp/4800270669

*5:題名の通り,スマホを落としたところから始まるサスペンスで,非日常のクローズドサークルで展開されるオーソドックスなミステリーではなく,日常のさりげない一幕からミステリーに引き込んでいくという切り口は面白かったが,書評を少し書くだけで結構なネタバレになりそうな予感がする...

*6:私は医学の専門家ではないので,以下,誤っている部分があったらぜひコメントをいただきたいです。

*7:https://www.jotnw.or.jp/studying/kids/basic/brain_heart.html

Initial Commit

何を始めるにも最初が肝心というが,大抵最初が一番難しい。

仮にも情報系の学生の端くれなので,何かを作り始める時に「環境構築」と呼ばれる通過儀礼,洗礼をしばしば経験する。これから世界に飛び込む,右も左も分からない人間にはかなり辛い所業である。自分でもよくわからないコマンドを打ち込み,変なところで「rm(削除)」をしないように注意しつつ,パス(PC上の"住所")が通らなかったらその設定をして...。あのハードルは下がらないものか,と毎度毎度思う。

 

今この瞬間も,その環境構築をやっているのだろう。Git*1を使っていると,一番最初にcommit("保存")した時には"Initial Commit"という名前がつく。タイトルすら考えつかなかったので,ちょっと借用させてもらった。

何を目的にするか考えてはみたが,大それた目的を掲げても,あとが続かなそうだ。私の親しい友人にはよく知られているが,私は,適当なことを思考のままに書き連ねる方が向いている。恐らくはそのスタイルで,日々感じることを,何の脈絡もないエッセイ風の文章で適当に投稿していくことになるように思う。何か情報を得ようだとか,専門的な知識を得ようだとか,ビジネスを立ち上げてみようだとか,そういう素敵な志をお持ちの方*2は,どうか期待しないでいただきたい。

 

ただ,強いて目的があるとすれば,今の所ブログのサブタイトル?としている,「私はどこから来たのか 私は何者なのか 私はどこへ行くのか」を知ることにあるのだろう。言わずもがなゴーギャンの絵*3の題から拝借させていただいたが,「我々」を「私」と変えてみた。「我々が何者で,どこへ向かうのか」は,様々な先生方やメディアが色々なビジョンを見せてくださっている*4し,色々なところでそれらを拝読・拝聴する機会がある。一方で,日々を感じ考えるままに言語化していくことを通じて,私自身が何者で,どこへ向かうかを,私自身も知ってみたいという心持ちがある。よくわからないが「頭の中をのぞいてみたい」という需要が,私自身以外にも少しばかりあるらしいので,それは満たせるかもしれない。

あとは,人があまり気に留めないことをしつこく考え理解していく,哲学者的な生き方をしている自覚はあるので,日々の光景を切り取り,それを感じ考えてみることを通じて,世の中の面白さ向上に,多少は貢献できるかもしれない。

 

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」(土佐日記

それと同じノリで,周りが結構やってるから始めてみる安直さなのだが,この文は「それの年の師走の二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。」と続く。奇しくもその門出の日と一日違いで*5始めてしまったらしい。彼の文才と叙情豊かな描写には遠く及ばないが,日々を書き留める日記として,時間を見つけて時々更新していきたいと思う。

 

 

 

*1:バージョン管理システム, https://git-scm.com/

*2:軽蔑でなく純粋な尊敬を持って見ている点をご留意いただきたい

*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E4%BD%95%E8%80%85%E3%81%8B_%E6%88%91%E3%80%85%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%AE%E3%81%8B

*4:最近読んだ本でいくつか挙げるなら,

あたりがオススメだろうか

*5:暦が違うだろというコメントは甘んじて受け入れる